吹雪が止んでいた。
代わりに、空気そのものが音を鳴らしている。
氷で出来た能舞台の上、光が雪を透かし、白い息が金粉のように舞っていた。
その中心に――イザナギがいた。
あの不器用な笑い方も、落ち着きのない指先もどこにもない。
レイスは、走り込んだ勢いのまま足を止めた。
「坊ちゃん!! ここにいたのか、ここにヤバい奴いるらしいぞ、早く──」
言葉が、止まる。
息を呑む。目の前の光景が、あまりに“異質”だった。
ハオが隣で目を細め、のんびりと口を開いた。
「へぇ~……イザナギ君って優雅な趣味してるネ~。
サタヌスと音楽セッションしたら良さそうダヨ」
レイスは顔をしかめ、タバコを噛む。
「いや、ちげぇわ。絶対ちげぇわ。
あの“人の目見て喋れないヤンキー”が、あんな所作で演奏するか?」
プルトが一歩前に出て、じっと観察した。
その視線は冷静で、まるで死を解析するようだった。
「姿は同じでも中身が違う。つまり、“魂の入れ替わり”ですね」
イザナギがゆっくりと振り返る。
その口元に浮かぶのは、見覚えのない微笑。
瞳は、誰のものでもない静謐な光を帯びていた。
「久しいな。お前たち……良き旅をしているようだな」
その声を聞いた瞬間、空気が変わった。
全員、同時に理解した――これはイザナギじゃない。
レイスは舌打ちして笑う。
「……坊ちゃんが美少女化したとか、そんなオチじゃねぇよな」
だがその軽口も、笑いに変わることはなかった。
ハオの耳がかすかに動き、プルトが一歩、静かに前へ出る。
「魂の入れ替わり。伊弉冉が、彼の中に“帰ってきた”」
レイスがため息をつく。
「なぁ……お前、和楽器読めたっけ?」
イザナギ――いや、“伊奘冉”は微笑んだまま、指先を弦に滑らせる。
「最近……“思い出した”んだ。色々なことを、な」
その声には人の熱がなかった。
柔らかく、けれど冷たく、まるで“神”そのものが語るような響き。
ハオは笑いを引っ込め、表情を引き締める。
「記憶、じゃなくて……人格、入ってル……コレ」
舞台の奥で、氷の鈴が鳴る。
まるで舞の幕開けを告げるように。
鳥居も、足跡も、黄泉平坂の光も——すべてが忽然と消えた。
風が抜けたような穴が空間にぽっかり開き、静寂だけが過剰に残る。
その沈黙の中で、あの声がゆっくりと響いた。
「フフ……美しかろう?」
「此処はあの娘も手を出せぬ、“私”の庭だ」
「飢えも、眠りも必要とせぬ。この閉じた世界で──永遠に留まってもよいのだぞ」
声は優しく、だが一切の逃走を許さない。
誘いというより、宣告だった。
イザナギの姿は霧に溶け、声だけが残って世界を包む。
「この子は返さない。そして──ふふふ。お前たちも」
「この美しき銀世界を堪能していくがよい」
その不敵な笑いが消えると同時に、黄泉平坂は跡形もなく消え去った。
レイスは静かに一度振り返り、目を見開いた。
「……黄泉平坂が、ない」
ハオの狐耳がぴくりと動く。低く、淡々と呟いた。
「気配が……まったくないネ。入り口ごと“封じられた”感じ」
空気が凍る。言葉が骨のように重く響く。
伊奘冉の、いや“彼”を覆うものは、もう単なる場所の罠ではない。
神が、自らの庭を閉じた——。
入った者を、等しく「死者」に変えてしまおうとしているのだ。
「『あの日から“私”は君たちの世を見ていたよ』」──声は続く。
「フフフ……素戔嗚、哀れな子。生者の限界を超えられなかった、愛しの子」
「だが君たちは違う。黄泉を越えて“ここ”へ来た」
「ならば、君たちは“死者”だ。私の庭に入った以上、ね」
カリストの肩がぞくりと震える。レイスは言葉を失い、呼吸だけが荒くなる。
だが、プルトは即座に状況を把握し、淡々と言い放った。
「閉じた世界、ですか。やってくれますね……神は」
カリストが帽子の影から鋭く前を睨む。
唇を噛みしめ、軍帽をぎゅっと握るその手に、何かが宿る。
「レイス……私たちに出来る事は、彼を奪い返すことだけです」
「冥府に奪われた者を──生きたまま取り戻す。それが、我々の唯一の抗いです」
その言葉が、氷の世界に小さな火を灯した。
レイスの目に、いつものふてぶてしい笑みが戻る。
「なら、行こうぜ。死が庭を閉じたなら、俺たちは扉を叩いて壊すだけだ」
足元の燐光が淡く震え、彼らの影が伸びる。
閉じられた世界——それでも、ただ立ち尽くす選択肢はない。
奪われたものを取り戻すための一歩を、四人は同時に踏み出した。
――真なる黄泉の深淵は、今、彼らを見つめ返している。
だが、返す答えはただ一つ。行く。取る。返す。
静寂の先で、何が待とうとも。
風がない。
雪は音もなく降り続け、氷の街はまるで世界が息をしていないようだった。
ハオが足を止め、ゆっくりとレイスを見る。
表情には珍しく、笑みの影がない。
「レイス」
「さっきの、きっとアレだヨ」
カリストが帽子のつばを指で押さえ、低く言葉を継いだ。
「国生みの成れの果て」
「黄泉津大神……ヘル殿は、それが目覚めれば輪廻が狂うと言われていましたね」
氷の屋根の上で、わずかに鐘の音が鳴る。
レイスは口の端を吊り上げたが、その笑みは冷たかった。
「あぁ、言わなくてもわかる。超がつくほどの大物だ」
沈黙の中、彼は剣の柄に手を伸ばす。
雪を弾きながら、鞘から抜かれたレーヴァテインが赤く呼吸する。
氷の大地を照らすそれは、炎ではない。
神を殺した火の残滓だ。
「……レーヴァテイン」
レイスの声は囁きのように低い。
「お前が“神を焼いた火”なら、今度は“神を取り戻す火”になってくれ」
ノズルが赤く灯る。
金属の脈動音が微かに鳴る。
まるで剣が応えているようだった。
風も止まり、雪が逆に舞い上がる。
伊奘冉を焼いた火之迦具土。
今、その神はいない。
だが、その火を再び掲げる者はここにいた。
首元には、欠けた浄玻璃鏡が揺れている。
それは生と死、そして真実の境界を映す欠片。
神を滅ぼす力は、もう人には残されていない。
だからこそ――人が、それをやる。
「……俺たちの火之迦具土になってくれ」
その言葉に、剣は静かに脈動する。
伊弉冉を焼いた火の名を継ぎ、今度は母を赦す火として再び目覚める。
氷の街に光が走る。
冷たい世界の中で、唯一の赤がゆっくりと膨らんでいく。
「火の神がいなくても、燃やす手段はあるネ」
ハオが笑い、カリストが前を見据える。
プルトの黒い外套が、雪を裂いて翻る。
「神の庭が閉じた? ――じゃあ、火でこじ開けてやるよ」
雪が、炎のように舞い上がった。
白と赤が交わる。
それは、“神殺し”でも“祈り”でもない。
人が神に挑み、神を取り戻そうとするただの願い。
その祈りを、レイスは焔に託した。
彼らの足跡の後ろには、もう“帰り道”はなかった。
黄泉は閉じた、進むしかない。
そして――彼らの進む先、霜土神苑の最奥に。
“神の座”が静かに光っていた。
氷の庭に、音が戻りつつあった。
それは風の音ではない。
ただ、冷えすぎた世界の表面が、少しずつ割れていく音だった。
レイスが前を向いたまま言う。
「火之迦具土に悪気はなかったんだろうな」
ハオが振り向く。
「え?」
「生まれた瞬間に母を焼いた」
「けど、それは“燃やそうとした”んじゃない。ただ、生まれただけだ」
プルトが小さく頷いた。
「生まれたことが罪」
その声は、氷よりも静かだった。
「……そうですね。生まれたことで母を殺したか。
火之迦具土はきっと、そうだったのでしょう」
彼女は視線を落とし、自分の手を見た。
白く、細く、死そのもののように冷たい指。
それでも、かつて誰かの血と温もりを受けて生まれた。
「私。火之迦具土とお友達になれる気がしますね」
誰も何も言わなかった。
ただ、その一言が、風より深く響いた。
プルト・スキア――闇を司る死の魔将。
だが、彼女もまた“産声をあげた罪”だった。
彼女の母、エイレーネは勇者だった。
その光は、娘を生んだ瞬間に燃え尽きた。
産声と同時に、彼女の命は途絶えた。
プルトが生まれたその音が、母の最期の息と重なった。
生まれることは祝福ではなく、奪うことだった。
命を継ぐとは、誰かの命を喰らって立ち上がることだった。
「火之迦具土に悪意はなかった」
「罪とは結果。そして、結果はいつも無垢な者に降りかかるのですね」
プルトは、遠くの桃の木を見上げた。
枝には未だ花も実もない。
けれど、あの氷の幹の奥で、わずかに赤い脈が通っているように見えた。
血か、記憶か、それとも母の名残か。
それらがすべて、彼女の“最初の罪”の中に埋め込まれていた。
「火之迦具土は私です。生まれたことで、母を殺した」
「それでも、生きなければならない」
「罪を贖うためではなく――“生まれた”という事実を、無駄にしないために」
その言葉に、レイスが何も返せなかった。
ただ、彼の手に握られたレーヴァテインが微かに震え、赤い光を放った。
それはまるで、母を焼いた神が――自分の罪を受け止めるように。
氷が音を立てて割れる。
その向こう、氷の地面に封じられていた“灯”が一つ、赤く光った。
火之迦具土は、まだ死んでいなかった。