大龍編-その名は虹瞳 - 5/5

蒸気の噴出口が鳴るたびに、白い霧が路地の石畳を這っていく。
夜の街は、鉄の匂いと油の香りが混ざった独特の空気。
ガイウスたちはその中を、慎重に歩いていた。
「ノワール区だ。……懐かしいな」
すると、どこからともなく声が飛んでくる。

「おーい! ブリテン!」
「ワンコだワンコ!」
ガイウスが眉をひそめる間もなく、蒸気の向こうから数人の子供たちが顔を出した。
どの顔も汚れているが笑っていた。
一年前と何も変わらない、ルッツが首を傾げる。
「……ブリテンって?」

ガイウスは肩をすくめ、ぼそりと答えた。
「アルキード人ってだけでこう呼ばれるんだよ」
「へぇ……犬扱いは?」
「……なんでか知らねぇけど、そういうことになってんだ」
言った瞬間、子供たちの中の一人がガイウスの背中を指差しながら、からかうように笑う。
「ほら!やっぱワンコだろ!」
ルッツは吹き出し、バルトロメオも肩を揺らして笑った。
「人気者じゃないか、ガイ君」
「うるせぇ」
ガイウスが額を押さえる。
背中に“でっかい犬耳”が透けて見えるような、そんな扱いだった。
そんな中、子供の一人が首を傾げるように言った。
「そういや、“土曜サル”は?」
「帰ってきてないよな、あれから一度も」
その名を聞いた瞬間、ガイウスの足が止まった。
空気が、少しだけ変わる。

しかし子供たちは気づくことなく、声を弾ませて続ける。
「でもさ、みんな思ってるんだ。あいつが死ぬわけないって」
「だよな、あいつならどっかでチーズかじって、また戻ってくるだろ」
ルッツが首をかしげた。
「土曜サル?誰それ?」
別の子が得意げに胸を張る。
「サタヌスのことだよ!」
ガイウスの胸がわずかに痛んだ。
だが、それを悟らせぬように無表情を保つ。

子供たちは続ける。
「あいつな、土曜に拾われたんだよ」
「名前なんて適当だろ? だから“土曜”」
「しかもサルみてぇにパイプ駆け回るしな!」
あまりにも即興すぎる命名に、ルッツが思わず苦笑した。
「……適当すぎる」

ハオも煙管をくるくる回しながら、口元に笑みを浮かべる。
「でも、妙に合ってるネ。あのサル顔、思い出せるヨ」
ガイウスは言葉を飲み込み、空を仰いだ。
白い蒸気の向こう、灯のない観覧車が黒くそびえる。
その輪の中に、昔と同じ笑い声がこだましていた。
「……あいつはきっと、生きてる」
心の奥で、誰にともなくそう呟いた。

サタヌスとの出会いは、一言で言えば――最低だった。
財布をスられた上に、追いかけた先でいきなりプロレスが始まった。
しかも相手は開き直り、こう言い放ったのだ。
「殴ったことは謝るが、スッたことは謝罪しない」
あの日ほど、“勇者になったこと”を恨んだ日はなかった。
そして、追い討ちのように――
「勇者を導く神器」が、そいつを“次の仲間”として指し示した瞬間の絶望ときたら、もう地獄だ。

「……ふざけんなよ。何で、よりによってコイツなんだ……!」
スラムの屋根の上で、赤いスカーフの少年が振り返る。
月明かりに照らされた浅黒い肌、光を宿す橙の瞳。
その口元には、悪魔のような笑み。

「おい勇者、“洗礼”ってのはこういうもんだろ?」
あの瞬間、アルルカンという街が“どんな街なのか”を理解した気がした。
正義なんて通じない。殴るか、殴られるか。
それがこの街のルールだった。
後に振り返れば、笑い話にもなる。
けれど、あのときのガイウスにとっては人生で一番ツイてない日であり――
運命に一番、殴られた日だった。

蒸気が立ち込める細い路地。
錆びたパイプの上で、子供たちが遊んでいた。
ガイウスたちが通りかかると、そのうちの何人かが顔を上げ、ぱっと目を輝かせる。
「おーい! ワンコじゃん!」
「久しぶりだなー!」
ガイウスが顔を上げる。
そこにいたのは、かつて出会ったノワール区のスラムキッズたち。
ボロボロの服も、煤けた笑顔も、あの頃とまるで変わっていない。

「お前ら……元気だったか」
「うん!ワンコは?死んでないじゃん!」
「死んでねぇよ」
子供たちはきゃっきゃと笑いながら、ガイウスの背後を覗き込んだ。
そこには、ルッツ、バルトロメオ、ハオ――新しい仲間たちが立っている。

「後ろのやつら、新しいダチか?」
ガイウスは軽く笑ってうなずいた。
「ん、まぁな」
子供たちは顔を寄せ合い、ひそひそと何か相談を始める。
やがて、にやりと笑い合った。
「見たところ──」
一人がルッツを指差す。
「右からチビ(ハオ)カマ(バルトロメオ)ヒステリー(ルッツ)」

「はぁ!?!? 誰がヒステリーだコラ!!!」
ルッツが顔を真っ赤にして詰め寄る。
「初対面でそんな呼び方ある!? 悪口でしょ!?!」
だが、子供たちは全然悪びれない。
むしろケロッとした顔で言い返す。
「え?ノワール区じゃ普通だぜ?挨拶みたいなもんだから」
その無邪気さに、横のハオとバルトロメオが吹き出した。
「いやー、的確すぎて何も言い返せネ」
ハオは笑いながら頭をポンポンされ、余計に“チビ”感を強調される。
バルトロメオは腰に手を当て、優雅にポーズを取る。

「カマって……俺、舞踊士だからな? 正解すぎて返す言葉ないんだけど」
ルッツがさらに怒る。
「何笑ってんのよ!絶対バカにしてるでしょ!」
しかし誰も止まらない。
むしろ笑い声は広がっていく。
そんな中、ガイウスがため息混じりに言った。
「……言ったろ。ここじゃこうやって呼ばれるのが普通なんだよ」
「逆に呼ばれなかったら、“仲間じゃない”ってことだ」
「そうそう、“悪口じゃなくて挨拶”!」
子供たちが口をそろえて頷く。
「なあ、ワンコ!」
ガイウスは苦笑して、子供の頭をくしゃっと撫でた。
手のひらに感じる温かさが、懐かしい。

その横で、ルッツだけが頬をふくらませてブチブチ文句を言い続けている。
だが、すでに背後では子供たちが楽しそうに叫んでいた。
「ヒステリー!ヒステリー!」
ルッツの怒声と子供たちの笑い声が、ノワール区の路地裏に響き渡る。
――そして、それこそが“仲間として受け入れられた証”だった。

蒸気の立ち込める路地に、懐かしい匂いが漂っていた。
焦げた脂の香り、鉄板の熱気、そしてほんの少しの煙草の煙。
ガイウスが立ち止まると、屋台の奥から煙の向こうに笑い声がした。
「おう、勇者」
屋台のおやじが顔を上げ、煙の隙間からにやりと笑う。
「……ほぉ、顔つきが変わったな」
ガイウスは思わず右頬に手をやる。
そこに残るのは、あの戦いの古傷。

おやじはニヤリと笑って、炭をくべた。
「前よりずっといい面だ。死にかけたやつの顔だな。ノワールじゃ“男前”って言うんだ」
「……そんな風に言うのか」
ガイウスは目を伏せる。
けれど屋台の灯りが、彼の横顔を照らしたその時。
そこにいたのは、一年前よりも逞しくなった青年だった。
「まぁいい。うちの豚串、1年ぶりに食うか?“塩強め”で焼いてやるよ」
串を片手でひょいと握りしめ、ガイウスの前に差し出す。
焼けた脂が弾ける音が、夜のノワールに心地よく響いた。

「……ああ。懐かしいな」
ガイウスは笑い、串を受け取る。
背後では仲間たちが、その光景を微笑ましく見守っていた。
ルッツが小声で呟く。
「……いいな、そういうの。私は“ヒステリー”なのに」
ハオがケラケラ笑う。
「勇者サン、“ワンコ”から“男前”に昇格ネ」
バルトロメオは串を覗き込み、軽口を添える。
「豚串がご褒美ってのがノワール流で好きだな。洒落てるよ」
笑い声が混じる中、ガイウスは串を噛みしめた。
塩気と脂が舌に広がり、胃の奥がじんわりと温まった。