大龍編-眠らぬ街 - 1/5

―診療所・再会
その夜、もう一つの目的を果たすために、ガイウスは足を運んでいた。
ノワール区の奥、古いレンガ造りの診療所。
かつて“ルナ”によって魔族に変えられた名もなき女性――。
自分とサタヌスを“撒くため”犠牲にされた彼女がどうなったのかを、確かめに来たのだ。
「……あの人、今も生きてるだろうか」
ガイウスの問いに、受付の少年が首を傾げる。
「たぶん、あの先生が知ってると思う。最近も治療してたって」
薄暗い廊下を抜けると、奥の診察室から見覚えのある低い声が響いた。

「おや……お久しぶりです」
振り向いたのは、黒衣の上に白衣を羽織った青年――デネブ。
銀髪に赤い瞳、腕には魔王軍の医師の証である白い腕章。
闇医者、あるいは“異端の治療師”と呼ばれた男。

デネブは穏やかに微笑んだ。
「元気そうで何より。貴方のような無鉄砲な勇者が生き残るとは、実に興味深い」
彼の背後には、消毒薬と薬草の匂いが漂っていた。
そして、窓辺には人の姿をした女性が一人。
――あの時、魔族に変えられた“彼女”だった。
頬にはまだ小さな鱗の痕が残る。
だが、目は確かに“人の色”を取り戻していた。

「戻った……のか」
呟いた声が震え、デネブは淡く笑う。
「ええ、勇者様の“聖痕”の血が役に立ちましたよ」
「完全ではありませんが、もう人として笑える」
彼の言葉に、ガイウスはゆっくりと頷く。
胸の奥で、何かが解けていく。

「……そうか。よかった」
デネブは、わずかに肩をすくめた。
「勇者とは不思議なものですね。
殺すより、救う方を選ぶ。医者の立場からすれば、羨ましい話ですよ」

「お前も、そうしてるじゃねぇか」
ガイウスが苦笑する。
「人を治してるんだろ。魔族だろうが関係ないさ」
その言葉に、デネブはわずかに目を細めた。
赤い瞳の奥に、ほんの少しの温もりが灯る。
「……相変わらず、理想家ですね」
二人の間に、静かな沈黙が流れる。
外ではノワールの夜風が、鉄の管を鳴らしていた。

白いカーテン越しに、薄い陽の光が差し込んでいた。
消毒薬と乾いた花の匂い。
ベッドの傍らに立ったガイウスは、しばらく何も言わずに立ち尽くしていた。

カーテンの向こうに、彼女――あの日、ルナの“恋人”だった女性が座っている。
人の姿を取り戻してから幾月が過ぎ、肌にはまだ淡い灰色の痕が残っていた。
それでも、目はもう確かに“人”の色をしていた。
ガイウスはゆっくりと口を開く。
「……お話、いいですか」
女性は少し驚いたように顔を上げ、そして微笑む。
「先生から聞きました。
私がヒトを喰わずに済んだのは……貴方と、もう一人が止めてくれたおかげだって」
彼女はベッドの端で手を重ねながら、視線を落とした。
「その時のこと、あまり覚えていないんです。ただ……声だけは、はっきりと」

静かな空気の中で、彼女はそっと呟く。
『やめろ!!誰も殺させたくないんだ!!』
『邪魔すんじゃねぇ!こいつは!!……さっきまで人だったんだぞ!』
それは確かに、あの日の彼らの声。
彼女の瞳が、少しだけ潤む。

「……怖かった。でも、あの声が聞こえた時、ほんの少しだけ……安心したんです」
ガイウスは言葉を失ったまま、拳を握る。
「……俺たちは、何もできなかった。
あの時、助けることも、止めることも。結局、全部後手に回った」
女性は首を振る。
「違うんです。
あの人――ルナは、優しかったんですよ。あの瞬間までは」
「……優しかった?」

「ええ」
彼女は遠くを見るように、ゆっくりと言葉を続けた。
「でも、もうきっと……次に会った時、笑いかけてはくれないでしょうね」
彼女の声は穏やかだったが、底には確かな痛みがあった。
「だって、気づいてたんですよ。あの人の笑顔は、全部“作り物”だって」
風がカーテンを揺らし、柔らかな影が二人の間に揺れる。
外では蒸気の音が遠くで鳴り続けていた。

「でも、嫌いにはなれないんです。確かに、優しかったから」
ルナが彼女を連れていた理由は、ただのカモフラージュ。
いつでも切り離せる擬態の小道具。
そして彼が再臨するなら――また、同じように“気まぐれ”で誰かを壊すのだろう。

ガイウスは、胸の奥が鈍く疼くのを感じた。
「……あいつを、止めなきゃな」
女性はその言葉に、ゆっくりと頷いた。
「もし、またあの人に会ったら。今度は、貴方のその手で“優しく終わらせて”あげてください」
静寂が満ち、ガイウスは小さく目を閉じた。

「……ああ、約束する」
その約束は、誰にも聞こえないほど静かに。
けれど確かに、ノワール区の夜風に溶けていった。
デネブは机の上のカルテを閉じ、淡く笑った。
ランプの明かりが揺れ、彼の銀髪に橙の光を落とす。
「……勇者様、最近、魔王軍の話を耳にされますか?」
ガイウスが目を上げる。

「いや。もうほとんど聞かないな。
各地で残党狩りは続いてるが、組織としては……もう壊滅だ」
デネブは軽く首を傾げ、わずかに笑う。
「魔王軍が“消えゆく組織”だと聞きましたがね」
「元軍医の経験から申し上げますと──このまま静かに消えゆく気がしないのですよ」
ガイウスの眉がわずかに動く。
デネブはその反応を見て、意味深に続けた。
「とくに、“カリスト様”と“プルト様”がご存命なのでしょう?
あの二人は……えげつないと有名でしたから」

ガイウスは一瞬だけ沈黙し、それから低く答える。
「……ああ、感じてる。絶対に何か起きる」
窓の外では、ノワール区の蒸気がゆらゆらと夜風に揺れていた。
遠くで観覧車の光が、ゆっくりと回る。
街は眠りについているようで、どこかざわついている。

「今の平穏は──嵐の前の静けさだ」
ガイウスの声には、確かな緊張が宿っていた。
デネブもまた、その言葉に黙って頷く。
「全員が、うっすら感じ取っているんですよ」
「そう遠くない未来に、再び“災厄”が起こると」
ガイウスは立ち上がり、窓の外の上層を見据えた。
そこには、煌めくルミエール区の光――
そしてそのさらに奥、“氷の将”と“闇の刃”が潜む気配がある。

「……二人を、早く見つけねぇと」
拳を握る音が、静かな診療所に響いた。
外の風が、窓の隙間を抜ける。
その夜の空気はどこか重く、遠くで雷のような音がした。
――嵐は、確かに近づいていた。

夜のランプが灯り始め、石畳を金と紅の光が染めていた。
アルルカン上層、ルミエール区。
かつてヴィヌスが舞台に立ち、拍手と歓声に包まれていた場所も、今は静まり返っている。
それでもこの街は、沈黙の中でちゃんと喋っていた。──看板が。
ガス灯に照らされた店先の看板たちは、皮肉を吐き出し続けている。
「……読めねぇ」
ルッツが眉をひそめ、フランス語の手書きプレートを睨みつけた。
「キズ野郎、通訳して」
ガイウスは肩をすくめ、古びた看板を見上げた。
柔らかな筆致で、金の縁取り。そこにはこう書かれていた。

“Un dîner, c’est une guerre sans balles.”
(会食は、弾丸が飛ばない戦争。)

ガイウスは低く呟く。
「……“会食は、弾丸が飛ばない戦争”」
「貴族の食事会は、戦争と変わらねぇって意味だ」
ルッツが口を尖らせる。
「やっぱり毒しかねぇなこの街……」
隣で、バルトロメオがワイン片手に笑う。
「皮肉屋さんが多い街だねぇ。
でも……そういう毒がなきゃ、アルルカンはアルルカンじゃないかもね」
その声に、風が混ざる。
スカーフを揺らしながら、夜風が通りを撫でていく。
ガイウスは無言で頷いた。
この街の毒は誰かを刺すための刃じゃない、真実を飾るための香料みたいなものだ。
毒があるから綺麗に見える、綺麗だからこそ苦い。
風に揺れて、別の看板がくるりと回る。

“Tout est vrai, tant qu’on y croit.”
(信じる限り、すべては真実。)

ルッツが呆れ顔でつぶやく。
「……嘘つきの開き直り?」
ガイウスは小さく笑った。
「いや……多分、舞台の台詞だ」
彼の視線の先には、閉館した劇場跡。
ヴィヌスが最後に立った舞台。
そこに立つもうひとつの看板が、月光を受けて淡く輝いていた。

“Si vous devenez trop orgueilleux, le vengeur viendra.”
(傲慢になりすぎると、復讐者が来るそうですよ?)

金の縁取りの古い木板。
ネオンの光に反射して、その言葉はまるで遺言のように見えた。
ルッツが息を呑む。
「……“復讐者”って……」
ガイウスはゆっくりと視線を上げる。
「“ユピテル討伐”を皮肉ってるんだろうな」
「この街は、笑いながら毒を吐く」
「けど……嫌いじゃねぇよ」
ヴィヌスがこの街を離れられなかった理由。
それはきっと、この“毒”の中に、真実と舞台の境界を見出していたからだ。

夜風がもう一度吹き抜ける。
金の看板が、カランと小さな音を立てた。