市場をあとにした四人は、宿の裏手にある焚き火場へ移った。
森を抜ける風が柔らかく、煙の匂いにハーブの香りが混じっている。
鍋ではソーセージが静かに茹で上がりつつあった。
ルッツは膝を抱えながら、火に照らされたガイウスを見た。
「ところであんた、びっくりしたことあるんだけど」
「勇者になる前。2年引きこもってたってマジ?」
ガイウスは箸を止め、視線を火の奥に落とした。
「……そうだぞ」
「騎士になれなくて、ディノスの自室にこもってた」
バルトロメオが笑いながら肩をすくめる。
「こんなガタイのいい引きこもりとかホラーだよもう♪」
「悪かったな」
その軽口にも怒鳴り返さず、ガイウスは穏やかに笑った。
だがその笑みの奥には、長い冬のような沈黙が潜んでいる。
「勇者さん、ソーセージ茹であがるのに時間あるヨ。聞かせて」
ハオが火箸で鍋をかき混ぜながら言った。
湯気がゆらゆらと上がり、橙の光が彼の顔を照らす。
少し間を置いて、ガイウスはぽつりと語り出した。
「……あの頃は何も見たくなかったんだ」
「騎士学校で、教官を殴った。
いや、本当は、殴るまで追い詰められたって言う方が正しい。
“その目が気持ち悪い”って言われ続けて、ある日、切れた」
火がぱち、と音を立てる。誰も口を挟まない。
「そしたらよ、問題児扱いだ。庇ってくれた先生まで辞めちまって……」
ガイウスはゆっくり息を吐いた。
「それから二年、何もできずに、自分の部屋で腐ってた。
剣も持たず、ただ天井を見てた」
ルッツが小さく眉を寄せた。
「……その先生って」
「バルド・カレストロ。あの人がいなかったら、俺、今も外に出れてなかった」
その名を口にした瞬間、ガイウスの声がわずかに柔らいだ。
焚き火の火が、瞳の奥に映る。
「“君の剣を信じてる”って、最後にそれだけ言って去ってった。
俺、手紙を貰ったのに開けられなかった。
……開けたのは、勇者になってからだ」
静寂が訪れる。
ハオが火を弱め、湯の音だけが夜に溶ける。
ルッツは頬杖をついて呟いた。
「その先生、今もどっかで教えてるの?」
ガイウスは小さく頷いた。
「さぁな。でも……あの人なら、どこかで誰かを教えてるさ」
風が吹いて、焚き火の火花が宙を舞う。
まるでそれが、彼の過去の欠片みたいに、光って消えていった。
ガイウスが騎士学校に入学したのは、まだ十八の頃だった。
同年代の候補生たちより頭一つ分背が高く、腕も太く、
身体つきだけ見ればすでに一人前の戦士だった。
それが、逆に良くなかった。
訓練場で向かい合うたび、相手は萎縮した。
同じ年の少年が、まるで大人の兵士みたいに“見下ろしてくる”。
その虹色の瞳が――ときおり光の角度で輝くたび、
不気味だと囁かれた。
「なんでそんな目なんだよ、気持ち悪ぃ」
「魔族の血でも混じってんのか?」
最初のうちは、ガイウスも無視していた。
笑われても、突き飛ばされても、訓練が終われば黙って帰った。
“気にするな”とバルド先生が言ってくれたからだ。
先生だけは、あの目をまっすぐに見てくれた。
――けれど、あの日は違った。
訓練中、風が吹いた。
陽光を反射した虹色の瞳が、たまたま相手の目を射抜いた。
その瞬間、少年の顔色が変わった。
「……なんだよ、その目! 上から見んなよッ!!」
木剣を構える間もなく、胸ぐらを掴まれた。
押し合いになり、周囲が止めに入るより早く――拳が出ていた。
「バカにしたのは、あいつなのに」
息が荒く、拳は震えていた。
周囲の視線が怖かった。
自分が“人じゃない何か”みたいに見られている気がして。
彼の虹の瞳が、まるで呪いのように扱われ始めたのは、この日からだった。
学園の廊下はいつになく静まり返っていた。
夕刻の光が、ガラス窓から伸びて床を黄金色に染めている。
規律の鐘はすでに鳴り終え、残っているのは。
わずかに開いた学園長室の扉から漏れる声だけだった。
「……責任を、取っていただきたい」
低く冷たい声音が、廊下の奥まで響く。
扉の向こうから、ひとりの男がゆっくりと出てきた。
――バルド・カレストロ。
いつもの教師服の襟は少し乱れ、眼鏡の奥の瞳に決意の色が宿っていた。
彼は立ち尽くすガイウスに気づくと、静かに微笑み、首を振った。
「先生……俺」
絞り出すように声が漏れる。
バルドは足を止め、少しだけ目線を落とした。
「ガイウス、君の怒りはもっともだ」
「……先程、学園長が言われていた。
“ガイウスを育てきれなかった責任は、お前にある”とね」
それを告げる声は淡々としていたが、その手は微かに震えていた。
「だからこれは、私の未熟が生んだことだ」
ガイウスの喉が詰まる。
目の前の男が、自分のために全てを背負おうとしていることが、
痛いほど分かってしまったからだ。
「ッ……違うよ」
言葉が熱に変わる。
「先生は向き合ってくれたよ!
誰も見てくれなかったのに、ちゃんと見てくれた!」
胸の奥から、何かがこぼれ落ちた。
拳を握ったまま、ガイウスは続けた。
「ただ……オレが……ガキだったから……!」
バルドは一歩近づき、その大きな肩に手を置いた。
「ガイウス。君が“ガキ”なら、私は“未熟者”だ」
「……だから、どちらもこれから学べばいい。
私は教師をやめるが、君の剣はここから始まる」
その言葉のあと、二人の間を、窓からの風が通り抜けた。
外では、夕陽が沈みきる直前。
あたりは茜色に染まり、その色が“未完成な二人”を包み込むようだった。
バルドは振り向かずに歩き出す。
ドアノブに手をかけたまま、ふと、背中越しに笑った。
「……紅茶は、また今度ゆっくり飲もう」
パタン、と扉が閉まる音が響いた。
その音が、ガイウスの中でずっと消えなかった
その朝は、不思議なほど静かだった。
風も鳴かず、鳥の声も遠い。
騎士学校の門の前に、二人の影が伸びていた。
バルド・カレストロと、ガイウス・アルドレッド。
同じ日に――教師の辞職と、生徒の退学が決まった。
誰の口からも責める言葉は出なかった。
ただ、二人とも黙って立っていた。
ガイウスは荷物を背負い、まだ着慣れない外套の襟を直している。
何かを言いかけては、唇を噛み、うつむいた。
そんな彼の前で、バルドは少し笑って言った。
「ガイウス、少し屈んでくれ」
「え……?」
「君は背が高いからね。目線を合わせるのに工夫がいる」
ガイウスは戸惑いながらも、少し膝を折った。
先生はいつもの仕草で前髪を指先で払い、奥の瞳を覗き込む。
どんな色だったのだろう。
朝の光の中、その瞳は淡く、透明な空気を映しているように見えた。
「君の瞳は魔物などではない」
その言葉はゆっくりと、確かに心の奥に沈み込んでいく。
「少なくとも――私は、そう信じている」
ガイウスの喉が熱くなった。
何かを返そうとしても、声が出ない。
ただ、頷くことしかできなかった。
バルドは微笑むと、胸ポケットから封をした手紙を取り出した。
「これは、教師としてではなく、君の剣を信じた人間としての言葉だ」
差し出された封筒には、筆記体で「To Gaius」とだけ書かれている。
封蝋は紅茶の香りを纏っていた。
彼はそれを受け取ると、小さく「……ありがとよ」と呟いた。
その瞬間、鐘が鳴る。
バルドは一歩下がり、静かに帽子のつばを押さえた。
「さあ行きなさい。ガイウス・アルドレッド。
君の道は、もうここにはない。
けれど――君の剣は、どこへ行っても光るはずだ」
振り返らずに歩き出すガイウスの背に、朝陽が差し込む。
その背中を見送りながら、バルドはただ小さく呟いた。
「……人は、目ではなく心で見よ」
門が閉じる音が、新しい始まりの音に聞こえた。
勇者なんて、押し付けられた貧乏くじだと思った。
誰がどう美辞麗句を並べようが、それはただの「選ばれた犠牲者」だ。
世界を背負うだの、神に選ばれただの――そんなもの、言葉だけの飾りだ。
聖痕を持つものの証を示しても、周囲の視線は変わらなかった。
「英雄」ではなく「標的」として見られている感覚。
その空気は、騎士学校のときと何も変わらなかった。
本音を言えば、ロディに押し付けて寝ようと思ったぐらいだ。
どうせ誰かがやらなきゃいけないなら。
自分じゃなくてもいい――そう、思っていた。
それでもラピアへ行くつもりになったのは、あの手紙があったからだ。
バルドの手紙。
今も、ディノスの部屋に置いてある。
封を切ったとき、インクは少し滲んでいた。
紅茶の香りがまだ残っていたのを覚えている。
――ガイウスの未来が、良きものであるように。
剣を振るう日々の中でも、
どうか君が“心”を失わずにいられるように。
それが、私の祈りです。
それだけの短い手紙だった。
けれど、それがなければ、自分はラピアに向かうことはなかっただろう。
夜風がカーテンを揺らす。
部屋の机の上、灯りに照らされた手紙の文字が光る。
ガイウスは椅子にもたれ、静かに息を吐いた。
「……結局、あんたの言った通りだな、先生」
その横顔に浮かぶ表情は“勇者”でも、“戦士”でもなかった。
ただ――ひとりの、生徒のままだった。