古びた煉瓦造りの街――ソルーナ。
早朝の霧はまだ地面を離れきらず、路地の隙間から差し込む朝陽が、
赤と金の粒を撒いたように淡く輝いていた。
出発準備の合間、ガイウスはふと、通りの掲示板に目を止めた。
旅人用の求人や、教会の告知の中に、一枚だけ手書きの張り紙が混じっている。
『ソルーナ私塾・剣術&教養クラス 教師:バルド・カレストロ』
「……マジかよ」
心臓が跳ねる音が、なぜか場違いなほど大きく響いた気がした。
そのまま、足が勝手に動いていた。
木造の小さな扉を押し開けると、そこには黒板に「跳ねる」と書いている男の背中。
白い髪に混じる灰色、姿勢はあの日のまま。
彼は、振り向いて――微笑んだ。
「……やぁ。君がここを通る気がしてたんだ」
声の響きが、記憶とまったく同じだった。
ガイウスは一瞬、何も言えなかった。
ただ突っ立って、何年も前に戻ったみたいに動けなかった。
外で仲間たちが呼びかけている。
だが、ルッツだけがそれを制し「……行ってこい」と静かに背を押した。
教室の中、バルドはゆっくりと紅茶を淹れる。
湯気が揺れ、カップの香りが懐かしい甘さを運んできた。
「……まだその紅茶、クソ甘いまんまか?」
「もちろん」
バルドが笑う。
カップを手渡され、ガイウスはひとくち飲んだ。
思わず苦笑する。
「……変わんねぇな、先生」
「君もだよ」
短い沈黙。
けれどその沈黙は、気まずさではなく。
何かを取り戻すような静けさだった。
やがてガイウスが、カップを置いて、まっすぐに先生を見る。
「先生、俺……今さ。とんでもないのと戦ってる」
「下手したら魔王よりやばいのと」
バルドは表情を変えず、穏やかなまなざしで頷いた。
「だからあの日……教えてもらえなかった、最後の剣技。教えてくれ」
黒板の前に立つ二人の影が、朝陽に伸びて重なる。
外では、霧が晴れはじめていた。
その光の中で、新しい剣の記憶が、静かに受け継がれていく。
「私があの日、教えられなかった剣技だね」
バルドの声は、いつもの穏やかさの奥に、僅かな熱を帯びていた。
彼はチョークを握り、黒板に一文字だけ書く。
――「断」
チョークが擦れる音が、静かな教室に響いた。
外の朝靄が窓から差し込み、白い埃の粒が光の中で踊っている。
「丙の剣術に感銘を受けてね。
極限の集中状態から放つ、一撃必殺だ」
バルドはチョークを置くと、腰に模擬刀を携えた。
呼吸が、ゆっくりと、まるで時を止めるように整えられていく。
その一挙一動に、かつての講義の緊張感が甦る。
ガイウスは、瞬きを忘れた。
極限の集中。
剣が抜かれる直前、空気が震える。
次の瞬間、風だけが動いた。
――斬撃は、音よりも早かった。
黒板のチョークの線が真っ二つに割れて、粉が静かに舞う。
「……これが、原型だ」
バルドは鞘に刀を戻し、穏やかに言った。
「刃が届くより先に、心で“斬る”覚悟を定める。
それができれば、迷いは剣を鈍らせない」
ガイウスは無言で、その光景を見ていた。
指先に感じるのは、自分がこれまで握ってきた無数の剣の重み。
そして、ふと脳裏に浮かぶひとつの顔。
金の髪、金の瞳。
雷鳴とともに笑っていた、狂気の剣士――ユピテル。
「……皮肉だな、ユピテル」
小さく、ガイウスが呟いた。
「ぶっ倒したあとに、お前の剣術を真似るなんて」
バルドは目を細めて微笑む。
「剣に罪はないよ。学ぶ者が正しくあれば、それはいつだって新しい力になる」
陽光が強くなり、黒板に描かれた「断」の字が光を反射して揺らめく。
ガイウスはゆっくりと剣を抜き、構えを取った。
呼吸をひとつ、音が消える。
――その瞬間、空気が裂けた。
机上の羽ペンが、真っ二つに落ちる。
居合が走る音は、まるで稲妻のように短く、美しかった。
バルドは満足げに頷く。
「……立派になったね、ガイウス」
「いや、まだ未熟だよ」
ガイウスは剣を鞘に戻し、恩師へ静かに一礼した。
その仕草は、かつての問題児のものではなく――。
ひとりの“弟子”としてのものだった。
教室に残るのは、朝の光と紅茶の香りだけだった。
黒板の上では、さっきの稽古で割れたチョークの粉がまだ舞っている。
ガイウスは刀を鞘に戻し、息を整えながら振り向いた。
「なぁ先生、この居合。名前ある?」
バルドは少し目を細めて笑う。
「“断心閃”と呼んでいるよ」
「断心閃……?」
「心を断ち、迷いを斬る剣。君のような人間のための剣さ」
その言葉に、ガイウスはしばし黙った。
己の中にまだ残る怯え、怒り、後悔――それを全部、斬るための剣。
そう思うと、胸の奥に火が灯ったような感覚があった。
「意味、か……」
呟いたその時、ドアが勢いよく開かれた。
「キズ野郎ー!!!」
ルッツの声が、朝の静寂を引き裂く。
「魔王軍!ベレー帽の悪魔来てる!! 急いで!!」
ガイウスは一瞬だけ目を細めた。
ベレー帽――その言葉に、胸の奥で何かがざわつく。
ソルーナを襲う悪の影。
「……わかった」
短く返すと、外套を羽織り、扉へ向かう。
その背中を見送りながら、バルドは静かに笑った。
「ガイウス」
呼び止める声に、彼は振り向く。
「グッドラック」
その言葉は懐かしく、それでいて今まででいちばん力強かった。
ガイウスが出ていったあと、バルドは紅茶を注ぎ足す。
カップの縁に粉砂糖を落とし、静かにかき混ぜながら呟いた。
「……紅茶は、甘い方が良い」
カップの中で、白い砂がゆっくりと溶けていく。
外ではもう、剣戟と雷鳴が混ざる音が聞こえ始めていた。