轟音とともに世界が揺れた。
それは風でも地震でもない、噛み砕く音だった。
空気が咀嚼され、空が胃袋のようにうねる。
結界の中心で、マカの声が叫びに変わった。
「駄目です!! このままじゃ——新宿が……!」
彼女の手元で、魔法陣がノイズのようにブレている。
外界の構造が、噛まれて削がれているせいだ。
レイスは片手で煙草を支えながら、笑うしかないような声で呟いた。
「いいじゃねぇか、一回くらい全部食われてみろよ。」
火花の明滅に照らされた顔は、どこか爽快ですらある。
「腹の中で生き残れりゃ、それが“生”ってやつだろ?」
空が裂けた。
亀裂の向こうには無数の“口”。
どれも歯列が異なり、大きさも形も違う。
ビルをかじるもの、空気を吸うもの、何もない空間そのものを噛む“口”。
噛まれた部分は歪み、道路がまるで胃の粘膜のように波打つ。
風の音が低く反響し、すべての音が胃の奥の反響音に変わった。
ゼルグライドが翅を広げ、雷光をまとって空を裂く。
だがその巨体ですら、キガの作り出した“口の領域”に捕まりかけていた。
「チッ……食われる側になるなんざ、笑えねぇ展開だな。」
竜が牙を鳴らす。
その背後で、緑の霧が蠢いていた。
マカは必死に詠唱を続ける。
「ゼルッ、後退を! まだ内部構造が不明です!」
ゼルグライドは短く笑った。
「内部?見たって意味ねぇ、あの“口”は——」
空が唸った。
キガの声が上空から降り注ぐ。
「胃の底まで、全部オレのモンだよ。」
黒と緑の閃光が交錯し、空の亀裂がさらに広がる。
ゼルグライドの影が地面を覆い、
その下で、レイスが煙草を咥え直した。
風が吹き荒れる。
それでも彼の笑みは、どこか晴れやかだった。
「そういやぁ——“一寸法師”ってあったな。」
「鬼の胃袋に、小人がわざと入って倒すって昔話。」
白い煙が舞い上がり、空に開いた“口”の闇へと吸い込まれていく。
レイスは笑ったまま、呟く。
「……規格外にできる悪あがきの常套句だッ!」
雷鳴が返事をした。
——その音は、巨人の咀嚼音にも似ていた。
胃の奥が、ざわめいた。
世界が裏返り、視界が歪む。
上も下もなく、すべてが「内側」へと吸い込まれていく。
〈一寸法師〉
たった三センチの小さな少年が、針を刀に、茶碗を舟にして鬼を討つ昔話。
レイスが口の端で笑いながら、それを思い出していた。
ゼルグライドの足元で、レイスは叫んだ。
声を拡声器のようにして、竜の轟音の中に叩きつける。
「ゼル!お前がマカと金ピカ(ユピテル)以外、乗せねぇ主義なのは知ってる!」
「俺が、アイツの中に入る!!だからちょっと踏み台になれ!」
雷鳴の中で、その宣言はあまりにも無謀だった。
ゼルグライドが一瞬、金属のような音を立てて笑った。
「踏み台か?」
「……いいぜ。足場ぐらいなら許してやる。」
マカが悲鳴のように声を上げる。
「何してるんですか!?あそこは“飢餓の神”そのものですよ!!」
ゼルグライドはにやりと牙を見せた。
「不死身は考えることが違うな。
食われても生きてる自信がある奴だけが、ああいうことやる。」
レイスが頷く。
次の瞬間、竜の足を蹴って跳ね上がる。
まるで矢のように駆け上がり、甲殻の稲妻を踏み。
虹のように光る昆虫翅を渡っていく。
その翅は滑らかで、触れるたびに光が屈折し、視界が万華鏡のように砕けた。
それでも彼はバランスを崩さず、真剣な眼差しで“天井の口”を目指して進む。
歯列がビル群のように並び、その奥には、闇のような液体が渦を巻いていた。
そして——レイスの姿は、光に溶けるように“口”の中へ。
空間がぐにゃりと反転し、外界は完全に閉じた。
音がない。
代わりに、どこまでも低い鼓動のような振動。
壁は肉のようでもあり、金属のようでもあり、
時おり“呼吸”のように脈動していた。
世界は橙と緑の粘液に満たされ、空間そのものがぬめる。
キガの声が、まるで近くから、そしてどこからでも聞こえるように響いた。
「あれぇ? こっちから食う必要がないなんてねぇ。」
「ま、いいや。——まずお前から食べてあげる♡」
声が柔らかく笑うたびに、壁が脈を打ち、
胃袋そのものが“微笑む”ように収縮する。
“胃袋の結界”——名を〈ペルガモン(Pergamon)〉。
由来はヨハネ黙示録・第二章「ペルガモンにある教会」から。
かつて“サタンの座”と呼ばれた都市。
信仰と堕落、食と禁忌、そのすべてが混ざり合った“咀嚼の都”。
学者たちはこの結界を「神の食欲の化身」と記録する。
胃のような構造、咀嚼する空気、光を飲む天蓋。
——それは世界が“食われる側”に回った瞬間だった。
それは「飢餓」の神域であり、同時に“救済の胃袋”でもあった。
崩壊した都市の上空で、空が虹色の腐光に染まる。
無数のイナゴが舞い、地平線が息をしているように蠢く。
世界が滅ぶ音を、誰も悲鳴と呼ばなくなった。
その中心で、キガは両手を広げていた。
黒いパーカーの胸には、“FAMINE”の文字。
それなのに、その顔はまるで福音を語る聖者のようだった。
「見えるかい? コレは、別の世界の地球の末路。」
崩れ落ちるビル、群れるイナゴ、不気味な虹光に覆われた空。
それは“終末後の地球”そのものだった。
「黙示録が到来した世界には、あらゆる苦難がふりかかる」
大地震——
眠る地殻がひとつ息をするだけで、都市は粘土細工のように砕け散る。
ガラスと血と鉄筋が混ざり、地面そのものが呻き声を上げる。
蝗害——
空が黒くなる。日光を奪うのは雲じゃない、“生きた影”だ。
数億の胃袋が同時に鳴り、緑が一晩で消える。
破局噴火——
火山灰が季節を殺す。太陽は見えず、世界は“夜の正午”になる。
肺は灰で埋まり、雨は酸を含み、静寂だけが残る。
津波——
海が立ち上がる。街を飲み込み、記憶を攫い、海岸線を描き換える。
潮が引いたあとには、誰の名前も残らない。
核戦争——
それは雷のように訪れ、祈る暇さえない。
皮膚が焼けるより早く、影だけが地面に貼り付く。
人類の叡智が、自分たちを“灰”に変える。
「みんな理不尽に死んでいく。そんなふうに苦しむくらいなら——」
彼は、柔らかく笑った。
「全部、溶けてしまうほうが幸せだろう?」
その声音は、やさしかった。
母が子に眠りを勧めるように、静かで、穏やかで。
けれど、同時に——あまりにも悍ましい愛だった。
「死」を“慈悲”と信じて疑わない者の声。
「おいで♡」
掌が、まるで光を抱くように開かれる。
そこに吸い込まれた者は、苦しみから解放される。
痛みも恐怖も、時間も、すべて消えていく。
——その代償として、魂までも溶けていくのだ。
マカは震える声で呟いた。
「……あなた、世界を喰う理由、それが“優しさ”なの……?」
キガは答えなかった。
ただ、目の奥で笑っていた。
その瞳には、滅びゆく世界さえ「可愛い」と映っていた。
ペルガモンの“胃袋”は開く。
その内部は、神格存在ですら形を保てない崩壊領域。
慈悲と捕食が区別されない、究極の「飢餓の聖域」。
「……愛の形が間違ってる奴ほど、ややこしいんだよな。」
「ああ、だからこそ“神”は人を喰うんだろう。」
世界を救うために世界を食べる。
痛みをなくすために命を奪う。
——それが、キガの“優しすぎる理由”だった。
雷鳴が遠ざかり、代わりに“音のない雨”が降り始めた。
それは水ではない。
空に口を開けたキガの喉奥から、透明な液体がゆっくりと滴り落ちている。
アスファルトに落ちた瞬間、舗装は泡を立てて溶け、
結界の光の膜が音もなく消えていく。
マカはすぐに異変を察知した。
詠唱の音がかすれるほどの焦燥で叫ぶ。
「やばいっ……結界が溶けたら!!」
ゼルグライドは翅を広げ、落雷のような風圧で空気を押し返す。
しかし雷をまとっても、滴る液体は止まらない。
それは“飢餓の唾液”とも、“創造の逆流”とも呼ばれるもの——
存在するだけで、魔法構造そのものを“解く”物質。
竜は金属質の声で唸った。
「どうするご主人? 飛び込んでやるか?」
マカは首を振る。
表情は焦りを超えて、もう決意のそれになっていた。
「レイスだから耐えられるんです。あの空間は。」
「魔力量……異常。神族でも三十分で生命活動に致命的支障が出ます。」
ゼルグライドはわずかに目を細めた。
雷光が瞳の奥で線を描き、ゆっくりと笑う。
「ほほぅ。神すら溶かす口か。」
「もう“神”すら超えたナニカってとこだな。」
その声には、畏怖よりも愉悦が混じっていた。
竜でさえ理解できない“未知”への本能的な高鳴り。
それは、古代の神話生物が“神を超える存在”と出会った時の、
狩猟本能にも似た昂ぶりだった。
「……むしろ燃えるな。」
マカは目を見開く。
ゼルグライドの言葉には、恐怖ではなく期待が宿っている。
“燃える”という言葉が、まるで雷そのもののように軽く響く。
結界の縁が完全に崩れた。
胃液のような液体が地面を這い、
触れたものすべてを“無”に還していく。
「さて、ご主人。世界が溶けるまでの残り時間、推定三分。」
「三分もあれば十分です。レイスが——あの人が、“胃袋の中から殴る”から。」