胃袋のようにうねる世界の奥底、ペルガモン。
雷と胃液の光が交錯し、腐蝕する音が空気そのものを震わせていた。
その中に、レイスがいた。
黒炎を纏いながら、ただ静かに立つ。
溶けた皮膚が即座に再生し、焦げた肉が再び形を取り戻す。
——異常。
この結界の中で「形を保てる」存在は、神族ですら存在しない。
けれど、レイスは溶けない。
いや、“溶けた傍から戻っている”。
キガは一瞬だけ黙り込み、唇を吊り上げた。
笑っているのか、それとも驚いているのか、わからない表情。
「へぇ……すごいね、おたく。」
声は優しく、どこかで“嬉しそう”ですらあった。
飢餓の神の瞳が、興味を持った子供のように輝く。
「ここ、何でもドロドロに溶けるんだよ?
神でも、魔でも、最後は形を保てなくなる。
……みんなね、最後は泣き出すんだ。」
キガは、指先を口元に当てて微笑んだ。
その笑みは慈悲深く、そして何より“優しすぎた”。
彼の脳裏に、かつて飲み込んだ無数の“犠牲者”たちの姿が浮かぶ。
教祖、英雄、神子、賢者。
誰もが最期には泣きながら「助けて」と言った。
——それが愛しか知らぬ神にとって、最高の瞬間だった。
「かわいい……」
キガが小さく呟く。
まるで、今まで飲み込んだ“思い出”を撫でるように。
愛おしそうに、懐かしむように。
だが、目の前の男は違った。
レイスは炎に包まれながらも、笑っていた。
「俺が溶けるの、待ってるのか?」
「残念だな。溶けないよ、俺は。」
その言葉に、キガの笑みがわずかに揺れる。
“理解できない”というより、“初めて出会う反応”に目を細めた。
「……へぇ、ほんとに変な人だね。」
「じゃあさ、根比べしようか。」
空気が軋む。
飢餓の神が、口角を上げて囁く。
「おたくが泣くまで、俺が愛してあげる。」
レイスは煙草の灰の代わりに、黒炎を吐き出した。
炎の中で、皮肉げに笑う。
「それ、プロポーズにしちゃ重すぎるな。」
キガの姿がふっと掻き消える。
次の瞬間、周囲の景色が歪んだ。
イナゴの群れが頭上を舞い、街の骨組みが胎動を始める。
廃墟は柔らかくうねり、鉄骨は血管のように脈打った。
地面が生物の腹の内側のようにぬめり、ビルの外壁が呼吸をしている。
都市が、生き物の胎内に変わる。
風は止み、代わりに聞こえてくるのは“世界が嚥下する音”。
レイスはその中心で、ただ笑っていた。
炎が唇を照らし、瞳には飢餓の神の幻影が映る。
「……愛してくれる? そりゃ結構。」
「でも、俺は不死身だ。愛でも喰えねぇ。」
空間の奥から、キガの声が返ってくる。
甘く、優しく、そして地獄のように穏やかに。
「そんな強がり言って、みんな同じ顔で泣くんだ。」
「どうせ君も、最後は“溶けて”くれるんでしょ?」
声が、溶けるように響く。
ペルガモンの空は暗く、
そこでは——愛が戦いの形をしていた。
空気がぬるい。
呼吸するたび、喉の奥が焦げそうになるほど、硫黄と血の匂いが混ざっていた。
粘膜の壁が呼吸をするように蠢き、時おり不規則に収縮して、胃液のしぶきを飛ばす。
そのたびに、世界全体が小刻みに“脈打った”。
レイスは肩を竦め、唇の端を上げる。
「落ち着くな、さっきの廃墟より。」
炎に照らされた顔には、むしろ安堵にも似た笑みが浮かんでいた。
「死なねぇ奴の居心地がいい。」
黒炎が立ち上がり、ぬめる壁を照らす。
火の色が、胃液の緑を逆に際立たせた。
焼けるたびに、壁の奥から“悲鳴のような振動”が響く。
それはまるで、生き物そのものが痛みを感じているようだった。
「くすくす……探検?随分余裕だね」
「まぁいいぜ、どのみちおたくも、外のおチビ(マカ)も食べちゃう予定だから。ゆっくりしてきな?」
声がどこから響いているのか分からない。
笑い声は壁の裏からも、胃の奥底からも、液体の中からも滲んでくる。
音の反響が多重になり、神の声が“空気に溶けている”かのようだった。
レイスは肩を竦め、笑った。
胃液に足首を沈めながらも、まるで廃墟探索に来た観光客のような顔をしている。
黒炎がぽうっと灯り、空間の奥を照らす。
そこで、彼はそれを見た。
壁に半ば埋もれた巨大な金属の残骸。
鋭角な船首。だが、形はもう分からないほどに歪んでいる。
溶解液に長年晒されたのか、船体は膨張し、肋骨のように裂けていた。
焦げ付いた外殻には、かすかに消えかけた文字。
レイスはその英字を見上げ、片眉を上げる。
黒炎の光が金属に反射し、彼の頬を照らした。
「……EXODUSねぇ。」
口調は軽い。
だが、その目の奥に宿るのは、皮肉でも諦めでもない、確かな理解だった。
「地球、住めなくなったんだな。」
呟いた瞬間、周囲の液体がざわめいた。
溶けた鉄の匂いと胃酸の臭気が混ざり、空気がねっとりと重くなる。
まるでこの場所そのものが、“その事実を隠したがっている”ようだった。
キガの声が、ふと笑い交じりに返る。
「そう、“出て行こう”とした。でも逃げ切れなかった。」
黒い液体が天井から滴り落ち、床で泡を立てる。
そこから、焼け焦げたヘルメットの一部がゆっくりと姿を現した。
そのバイザーには、まだ微かに“星空の反射”が残っている。
「どの時代の人間も、同じこと考えるんだよなぁ。
食われたくない。逃げたい。生き延びたい。」
キガの声が一段低くなる。
その響きには、祈りと呆れが同居していた。
「でもさ——宇宙の外側にまで、“胃袋”は広がってたんだ。
レイスはしばらく沈黙した。
そして、唇の端をゆっくりと上げる。
「お前……食い意地が張ってんな。」
「だろ? 飢餓ってのは“生”そのものだからさ。」
キガの笑いが、壁の奥から響く。
胃液の海が静かに波打ち、遠くで“船体が崩れる音”がした。
それは、未来から流れ着いた船が、ついに完全に消化された音だった。
マカは結界陣の中央で、肩を上下に揺らしていた。
見る者には、まるで踊っているようにしか見えない。
けれど、そのステップには生存の理屈があった。
この空間では、“静止”したものから順に喰われていく。
だから詠唱中でさえ、動きを止めてはいけないのだ。
アスファルトが軋む。
黄緑の液体が、街灯の残骸をゆっくり飲み込んでいく。
マカはその光景を一瞥し、息を整えながら言った。
「……わたし、喰われるつもりないですからね。」
声は震えていない。
その身体を包む結界の輪郭が、熱を帯びて脈打つ。
詠唱を続けながら、マカは腿上げのように両足を交互に跳ね上げた。
ゼルグライドが彼女の上空を旋回し、雷を散らす。
胃袋の空が割れ、時折、イナゴの影と雷光が交差する。
「詠唱中もよく動くな、ご主人。」
「そうしないと、すぐ食べられるんですよ!」
マカは息を弾ませ、額の汗を拭わずに笑った。
靴底が水を蹴るたび、粘つく液体が跳ねる。
だが、それすら彼女にとっては“音楽”だった。
結界陣が再び明滅する。
雷の線と魔法陣の文様が重なり、
空間の歪みが一瞬だけ“止まる”。
「——詠唱、再強化。あと一分です!」
ゼルグライドが笑う。
「食われるつもりがない奴ほど、旨そうに見えるな。」
「食べないでください!!」
マカの叫びに、竜が楽しげに咆哮を返す。
空は蠢き、胃袋の内と外が混ざり合うように震えていた。
胃袋の奥で暴れた黒炎は、もはや生物の域を超えていた。
それは意思を持った灼熱だった。
焼けた粘膜が悲鳴を上げ、壁が鼓動するたびに空間全体が軋む。
外の空がひび割れ始め、雷鳴の代わりに——世界そのものが“逆流”する音が響いた。
黒と黄緑の渦が、空間を噛み砕くようにうねる。
ビルの残骸も、光も、時間すらも。
何もかもが“咀嚼”されていた。
レイスの黒炎が胃壁を焼き裂く。
焼け焦げた粘膜が波打ち、悲鳴と咆哮が重なる。
それは、まるで二つの“生命の鼓動”が、
同じ胃袋で喧嘩しているような錯覚を生む。
黒炎が閃き、レイスの拳が壁を叩くたび、外の“口”がひとつずつ破裂して消えていく。
ドクン——と胃袋が鼓動するたび、雷鳴のような音が空間を満たした。
炎が走るたび、粘膜が焦げ、内部の“消化音”が悲鳴に変わる。
火は燃え上がり、胃壁は焼け、世界が崩れていく。
まるで“胃そのものが、外へ吐き出そうとしている”ようだった。
レイスは歪んだ笑みを浮かべる。
「お前の腹ン中、居心地良すぎて困るな!」
黒炎がさらに膨張する。
外から見れば、それはまるで“胃袋の中で核反応が起きている”かのようだった。
空間の奥から、キガの声が響いた。
雷鳴のような笑い声。怒っているのに、どこか楽しそうで——
まるで子供が初めて“遊び方を覚えた”みたいなトーンだった。
「おいッ!! オレをぶっ叩いたとこで——打ち出の小槌は出ねぇぞ!!!」
胃袋を掻き回されながらも、飢餓の神はまだ遊んでいる。
神らしからぬ笑いと、幼い残酷さ。
「クッソぉ……てめぇマジで溶けねぇ!!」
「もういいっ、わかったよ!!!」
音が変わった。
それまで“喰う”だけだった世界に、“裂ける”音が混ざる。
胃の内壁が破れ、外へと繋がる裂け目が走る。
キガが吐き捨てるように笑った。
「胃に石があっちゃ——メシが不味くなる!!!」
一瞬の静寂。
そして、爆ぜるような逆流音。
胃の中心から、黄緑の液体が飛び散った。
酸の臭いが辺りを満たし、光が歪み、空が開く。
その液体を突き破るように、黒い影——レイスが飛び出した。
体中がベタベタに濡れ、焦げた服は裂け、煙草の火は当然のように跡形もない。
それでも、唇の端にはあの歪んだ笑みが戻っていた。
空が晴れていく。
緑のネオンが色を失い、街が少しずつ“生”の光を取り戻していく。
ゼルグライドは翅をたたみ、焦げたビルの上から周囲を見渡した。
マカは結界陣の残骸の上で崩れ落ち、息を荒げている。
そのとき——空から何かが落ちた。
胃酸の匂いを纏った塊。
地面を滑り、マカの目の前に転がる。
「レイス!!」
マカの声が震える。
レイスは地面に寝転び、目を細めながら息を吐いた。
ゼルグライドが覗き込み、金属の喉で笑う。
「胃酸まみれで帰還とか、どんな勇者だよ……」
レイスは片腕を上げ、手の甲で顔を拭う。
焦げた服の隙間から、黒炎がまだ燻っている。
唇の端がまた、ゆっくりと上がった。
「……俺の勝ちってことでいい?」
彼の視線の先——空は静かに、白く戻っていく。
“ペルガモン”の胃壁が沈黙し、遠くの風がやさしく鳴いた。
そしてそのどこかで、キガの声が残響した。
「……食欲ってのは、満たされたら眠くなるもんだ。
また腹が減ったら、起きてやる。」
世界は再び、静かな“飢え”へと戻った。
マカはうなだれたまま、深く息を吐く。
ゼルグライドがその横で、
焦げたビルを背に静かに呟いた。
「飢餓も暴食も、“満腹”で終わるとはな。」
焦げた匂いの中で、レイスが片目を閉じ、歪んだ笑みを残して呟く。
「……悪足掻きの常套句ってのは、意外と腹持ちがいいんだよ。」