風が、焼けた街をやさしく撫でていった。
黒焦げのアスファルトの上で、レイスはゆっくりと上体を起こす。
服は焦げ、腕には酸の痕。
それでも、彼の笑みはいつものままだった。
ポケットから、ほとんど形を留めていない煙草を取り出す。
濡れたフィルターを見て、苦笑する。
「……まぁ、腹の中で一服できたんで。
今日はこれでチャラってことでいいだろ。」
煙草を咥えたまま、空を仰ぐ。
そこに広がるのは、異様なまでに澄んだ青。
さっきまで飢餓の緑で染まっていた空が、
何事もなかったかのように透明に戻っていた。
……ただ一つ。
雲の端に、“口の形”をした影が浮かんでいる。
遠く遠く、キガの声が残響のように響いた。
「……喰われた気分はどうだ、不死身?」
レイスは軽く肩をすくめて笑う。
「悪くなかったぜ。“腹ん中”で見た夢が——意外と綺麗だった。」
緑の光は完全に消え、崩れた街にはただ風が通り抜ける音だけが残る。
看板が軋み、途切れた電線がぱち、と火花を散らす。
その光はまるで、
“雷神の余韻”のようだった。
マカは両手を下ろし、静かに詠唱を止めた。
「……結界、解除。」
掌から淡い光がほどけて消える。
ゼルグライドの巨大な影も、霞のように空へと溶けていった。
辺りに残るのは、沈黙と、焼けた金属と酸の匂い。
レイスの声が、静かな風に混じる。
「……おい、黒い神サマのこと、どう見る?」
マカは答えずに一瞬だけ空を見上げた。
やがて、静かに呟いた。
「……神、ですか?」
風が髪を揺らす。
「あんなに人間臭い神、初めて見ましたよ。」
その言葉が、崩れた街の中に溶けていった。
新宿は、また“空腹を知らぬ”静けさを取り戻す。
まるで何も起きなかったかのように——
ただ、焦げた匂いだけが確かに残っていた。
風が通り抜ける。
埃と焦げの匂いを巻き上げながら、静寂だけを残す廃墟の街。
その中に、かすかな足音。
コツ、コツ、とリズムを刻むように近づいてくる。
瓦礫の影から、ひとりの青年が姿を現した。
キャップを深く被り、黒いパーカーの胸にはFAMINEのロゴ。
黄緑のインナーカラーが風に遊び、
歩くたび、まるで街の残光をひとつひとつ拾っていくようだった。
マカが顔を上げ、反射的に詠唱の構えをとる。
「……黒騎士……!」
青年は足を止めもせず、両手をポケットに突っ込んだまま肩をすくめた。
「黒騎士? うん、そうだよ。」
「でも、もう必要なさそうじゃん。」
ゆるく笑って、空を見上げる。
その目に映るのは、戦火を忘れたように澄んだ青。
「メシ食えるとこ、ある?」
レイスが立ち上がり、煙草を咥えたまま目を細める。
「お前、神ってより……ただの食いしん坊だな。」
キガは振り返らずに笑った。
「そっちのほうが、人間くさくていいだろ?」
ポケットから、おにぎりを取り出す。
ラップが少し破れ、焦げた海苔の匂いがほんのりと漂う。
「煙草と交換で、どう?」
レイスの手元から煙草が舞い上がる。
風がそれをさらい、くるりと回転させ、
空中を滑るようにして——キガの手に落ちた。
キガは受け取ると、にこりと笑い、おにぎりをかじる。
マカが呆れたようにため息をついた。
「……戦った神と、飯の話ですか。」
キガは頬を膨らませながら答える。
「戦いなんて、腹が減ったから起きるんだよ。」
「満腹になったら——ほら、平和。」
その言葉に、誰も返さなかった。
ただ風が吹き、瓦礫の上の灰を散らした。
新宿の廃墟。
帽子を被った青年と、煙草の煙だけがそこに残る。
ネオンはもう光らない。
それでも、空の端で一瞬だけ——
緑の光が、“笑うように”瞬いた。
飢えは罪じゃない。
それは、生きようとする“証拠”だ。
黒騎士は今日も、どこかで腹を鳴らしている。
—
――築地・午後
海の匂いがもう薄い。
それでも、風の中にはどこか潮気が残っている。
遠くで瓦礫を転がす音、どこかの建物の軋む音。
都市の心臓が止まっても、世界はゆっくり呼吸を続けていた。
通りの片隅、倒れた屋台の隙間に竹籠がひとつ。
中では、まだ新鮮なミュータント魚が数匹跳ねている。
目が二つ多い。鱗が虹色に光る。
だが、生きている。確かに。
そして、おこぼれを狙うカラスが一羽、とことこと歩いていた。
羽根は少し煤け、嘴は欠けている。
それでも彼は籠の中を覗き込み、
まるで昔からそうしてきたように首を傾げた。
通りのシャッターはみな降りている。
鉄の板には潮風の跡が残り、
赤い錆がまるで血管のように走っていた。
籠の魚と、歩くカラス。
そのたった二つが、この市場にまだ“命”があることを告げていた。
「人、いないな。」
「昼下がりの築地はこんなもん。」
「明日の早朝また来な。うるせぇまであるぞ。」
キガは瓦礫に腰を下ろし、
手を伸ばして空を掴むような仕草をした。
どこか子供のような笑顔。
「へぇ……楽しみが増えたな。」
レイスはその言葉に、笑いも皮肉も返さず、
ただ目を細めた。
蛇が陽の光にまどろむような、奇妙に安らいだ時間。
遠く、風に乗ってシャッターが揺れる音。
錆びた看板がカラリと鳴る。
それがまるで、まだ誰かがこの市場で働いているような音に聞こえた。
瓦礫の上を何かが転がり、
遠くで鳩が一羽、ひどくのんびりと空を横切っていった。
レイスが、コートのポケットに手を突っ込みながら歩いてくる。
焦げた煙草を咥え、
視線はひたすら灰色の空を追っていた。
「日本の美食ってさ、生ゴミの上に立ってたよな。」
マグロの看板が倒れかけた屋台の前で、
彼は笑った。
「どこもかしこも、和牛にチーズ、スイーツの祭り。
コンビニ弁当は毎日廃棄。……いい時代だったなぁ」
笑顔はあくまで軽い。
けれどその声に、100%皮肉の熱が滲んでいた。
「あの“豊かさ”が、腹を腐らせた。」
キガは、隣のベンチに腰を下ろしていた。
黒いパーカー、FAMINEのロゴ。
片手に、今にも崩れそうなおにぎりを持っている。
彼は笑いもせず、ぼそりと呟いた。
「A5の牛って言ってるが、逆に有り難くなかったよな。」
レイスが横目で見て、キガは続ける。
「“食う”ってさ、本当は怖いことなんだよ。
それを“味”でごまかしてただけ。」
どこからか焦げた海苔の匂いが流れ、
波止場の向こうでサビ色の波がゆらぐ。
二人は廃墟になったフードコートのベンチに並んで座っていた。
背後の壁には、今も剥がれずに残る広告。
『WAGYU BURGER』
――笑顔のカップル、過剰な光量。
ガラス越しに見える厨房跡には、腐ったパンとチーズが白く固まっている。
“人類の食文化”そのものがミイラ化しているかのようだった。
レイスが煙を吐いた。
煙は潮風に流され、光の中で薄く散る。
「腹に溜まるのは、食いもんだけじゃねぇんだよな。」
キガは短く笑って、おにぎりをもう一口かじった。
「そうだな。
でも腹が減るってことは、まだ生きてるってことだ。」
レイスが小さく頷く。
その沈黙に、もう言葉はいらなかった。
魚の影のような雲が、港の上をゆっくりと流れていく。
築地の街は、もう誰もいない。
だがその空気の奥で確かに、小さな腹の音が響いた気がした。
瓦礫の間に風が通り抜ける。
海風の代わりに漂うのは、焦げた油と古い鉄の匂い。
レイスは足元に散らばった紙屑の中から、一枚のチラシを拾い上げた。
そこには、かつての東京を象徴するような“映えバーガー”の広告。
虹色のチーズ、溢れる肉汁、完璧な照明の下で笑うモデルの歯。
今となっては誰も覚えていない「幸福の形」。
レイスの目が、ゆっくりと細くなった。
表情は険しく見えるが、実際には蛇が日向でまどろむ前の顔だった。
彼は膝を抱えてチラシを見つめながら、小さく息を吐く。
目の奥に、どこか懐かしい色が一瞬だけ浮かんだ。
「お。やっぱ嫌いだった? 和牛ハンバーガーとか。」
飢餓の神が瓦礫の屋台に腰を下ろし、空になったコーラ缶を指先で転がす。
「そんなに好きじゃなかった。」
「でも、キラキラしてたよ。チーズとか、脂で。」
一拍の沈黙。
キガはくすりと笑い、頬杖をつく。
「……それ、褒めてる?」
「さぁな。腹は減ってたんだろ、みんな。」
チラシの上に、古びた蛍光灯の光が落ちる。
虹色だったはずのバーガーの広告は。
今ではただの灰色の紙切れに見えた。
レイスはそれを折り畳み、口の端に笑みを浮かべた。
「……いい時代だったよ。100%皮肉で、な。」
キガは空を見上げ、ゆるく肩をすくめる。
「腹が減るうちは、生きてるってことだろ?」
「……お前に言われると、説得力があるな。」
二人の笑い声が、廃墟のフードコートに溶けていく。
看板の“MEGA BURGER TOKYO”の文字は半分消え、
残った部分だけが「EAT」の三文字として風に揺れていた。
静かな築地の屋根並み。
遠く、砕けたビルの残骸に、かすかにFAMINEのロゴが灯っている。
風が吹くたび、その文字がちらつき、やがて消える。
食うこと。生きること。
その境界が溶けて曖昧になった時代に——
人間はようやく、自分の腹の虫と向き合えたのかもしれない。
『BLACK RIDER:FAMINE AWAKENS』
――腹の虫が鳴るうちは、まだ生きている。