新宿-飯テロ黙示録 - 2/5

薄緑の霧が、地を這うように漂っていた。
まるで街そのものが息を吐き出しているかのようだ。
ビルの明かりは不自然に明滅し、ネオンは胃液のように粘ついた緑を散らす。
電光掲示板が同じ単語を延々と繰り返す。
“EAT” “FAMINE” “FULL?”
——意味を成さない、無意識の食欲の断片。

空気そのものが、消化の匂いを孕んでいる。
錆びた鉄と胃酸の混ざった臭気が、喉を焼いた。

倒れている二人のハンター、若い男と長髪の女性だ。
どちらも外傷はなく、血も流れていない。
ただ腹を押さえて、うずくまっていた。
「うぅ……なんでだ……? さっき、食べてきたはずなのに……っ」
手が震える。
まるで体の奥から“食われている”ように、胃の奥が悲鳴を上げていた。
隣で長髪の女が、かすかに笑おうとする。
「腹が減ったら、なんとかね……」
声が掠れ、笑いが喉で途切れる。
「……悪い、任せた……」
そのまま、女は静かに倒れた。
足元に転がる非常食パックの中身は“砂”。
食料そのものが、何かに吸われたように栄養を失っていた。

マカが素早く手を翳す。
淡い光が倒れた二人を包み、周囲の魔力を読み取る。
「……何だこれ、呪いでも毒でもない。」
光が脈動し、彼女の瞳が驚愕に開かれる。
「魔力反応が“内臓から”……? 空腹が魔力として出てる……!」
レイスはタバコをくわえたまま、うっすら笑う。
「人の“腹”を媒介に魔力発生、か……」
指先でライターを弾く音が、緑の街に妙に響く。

「間違いねぇ、あれだ。——“飢餓”が目を覚ました。」
風が吹いた……いや、違う。
音が風のように街を駆け抜けた。
それは、何千もの胃袋が一斉に鳴るような低音だった。
ネオンがそのリズムに合わせて脈打ち、
全ての光が一斉に“緑”へと変わる。
ハンターの女が、わずかに意識を取り戻し、震える唇で呟く。
「……誰かが……食ってる……」
レイスが視線を空へ向ける。
あの空の奥、まだ見ぬ“口”の存在を感じながら。

「あぁ、たぶん“街そのもの”がな。」
マカが青ざめた顔で、わずかに後ずさる。
「それ、比喩じゃないですよね……?」
レイスは答えない。
ただ、街の明滅を見つめていた。
まるで誰かが腹を鳴らすたびに、世界が呼吸しているように。
胃袋はもう、閉じられない。
飢えが街を支配し、空腹が命を食らう。
——新宿は今、“喰われながら、生きている”。

路地のあちこちで、魔族も人間も倒れている。
誰も彼もが腹を押さえ、呻き声を漏らし、
救急魔法も、薬も、何の役にも立たない。
まるで全員が「都市の胃袋」に直結されたみたいだ。
だが——なぜか、レイスとマカだけは普通に歩けていた。
ふたりの周りだけ、異様なまでに“普通”の空気が流れていた。

—“飢え”も“胃袋の呪い”も通用しない者たち。
モブがひとり、苦しそうに彼らに手を伸ばすが、
ふたりは自然にそれを避け、ただ真っ直ぐ「FAMINE」サイネージが照らす駅の奥へ進む。
倒れた人々と、歩き去るふたりの背中が強調される。
まるで、世界の胃袋が、このふたりだけは“消化できない”異物だと認めているかのように。

ビルの谷間から駅前広場に出ると、コンビニ前にうずくまる悪魔たち。
バス停のベンチに、苦悶の表情で座り込むサラリーマン風の人間。
暴走族のような魔族まで、頭を抱えて床にうずくまる。
「……これ、マジで“魔王軍の攻撃”か?」
レイスはポケットに手を突っ込み、靴でペットボトルを蹴った。
だが、すぐに答えが出る。
苦しむのは人間だけじゃない。
魔族すら、目をうつろにして腹を抱え、呻き声を漏らしている。

「……違ぇな。こりゃ魔王軍の仕業じゃねぇ」
レイスは、周囲をざっと見回す。
「魔族すら餓えてる。じゃあ、俺たちは何なんだ?」
マカは歩みを止め、静かに考える。
彼女の指が淡く光り、分析の魔法陣を空に描く。
しばしの沈黙ののち、口を開いた。
「レイス、わたしの推察ですが」
「わたし達は“どちらでもない”から平気なのかもしれません」
レイスは振り返り、眉を上げた。
「……どちらでもない、ね」

彼らの足元には、魔族の子供と人間の老婆が並んで倒れていた。
どちらも胃を押さえて眠っているようだが、
レイスとマカだけが、まるで“都市の胃袋”に引っかからない。
体が、飢餓の網に引っかからない。
人でも魔でもない、“あいだ”の存在。
二人は、何かに導かれるように、静まり返った新宿東口へと歩き出す。
駅ビルの明かりは、すでに緑色の胃液に染まっていた。
レイスは苦笑し「まあ便利だな、どっちでもねぇってのは」と、ふっと笑う。

周囲には腹を空かせて呻く者たちがいる。
だがその合間を、“どちらでもない”ふたりだけが、
迷いなく、腹も減らずに歩き出す。
そのまま、都市の奥へ。胃袋の中心、新宿の“口”へ——。

〈新宿東口交差点〉
夜の空は緑がかった膜を張り、
その向こうで、雷雲のようなネオンが蠢いていた。
ビルの窓という窓が、光を宿す胃袋のように明滅している。
レイスが空を見上げ、眉をひそめる。
「……あれ、猫いねぇな。」

マカは人混みの残骸の中で立ち止まり、
「“新宿東口の猫”が消えるなんて……」と呟いた。
一瞬の静寂。
だが、代わりに——異様な光景があった。
巨大スクリーンに映るのは、ふわふわのケーキ、溢れるホイップ、艶めく苺パフェ。
幸福の象徴だった“映えスイーツ”たちが、鮮やかな彩度で流れ続けている。
レイスが手を伸ばす。だが掴めない。
ガラスの向こうで女子アナが笑顔を貼り付けたまま。
“過去の番組”を再生し続けていた。

「……なぁ、これって」
レイスはぼそりと呟く。
「“見えてるけど食えない”——ってやつか。」
マカは苦い顔で、スクリーンを見上げた。
「……まるで世界が、SNSに胃を奪われたみたいですね。」
その瞬間、上空から声が降る。
「“美食”ってさ、いい言葉だよな。」
若い男の声だった。どこか愉快そうで、だが底冷えする響き。
レイスとマカが同時に空を仰ぐ。

「“食べる”って原始的行為を、“娯楽”として誤魔化してる。
……罪を、デコレーションしてるんだよ。」
次の瞬間、映像が崩れる。
スクリーンの中のケーキが腐り始めた。
苺は黒く溶け、クリームは膨張し、スイーツから溢れ出す甘い匂いが腐敗の臭気に変わる。
映像が匂いを持つ——そんな現象、ありえないはずなのに。

マカは息を詰まらせた。
「っ……腐って……!これ、映像じゃない……“現実を食ってる”!」
レイスは目を細めて、
煙草を咥えたまま冷ややかに笑う。
「見せもんのグルメが、現実の食い物より強ぇってわけか……皮肉だな。」

風が吹き荒れる。
ビル屋上の電光板がバチバチと爆ぜ、緑色の稲妻が夜空を貫いた。
電線が唸り、空そのものが“腹鳴り”のように鳴動する。
そして——声が続く。
「そのすべてに、価値がない。」
空間が歪み、その黒い影はネオンの反射をすべて吸収していく。
着地の瞬間、地面の色が“夜明け前の灰緑”へと変化する。

マカは帽子を押さえ、息を呑んだ。
「来ます……!!」
衝撃波が広がり、緑の波紋が四方八方へ駆け抜ける。
周囲の街灯がパチパチと一斉に消え、ただ一つの看板だけが光を保った。
そこには、太字で刻まれていた。

“FAMINE”
街全体が、それを合図に呼吸を止めた。
空腹が言葉を持ち、言葉が街を食い始める。
——飢餓(FAMINE)。

緑の空は、まるで都市全体が“胃袋の中”であるかのようだった。
ビル群のネオンが液状に溶け、電子音が胃酸の泡のように弾けては消える。
その真ん中で、黒い影が降り立つ。
衝撃波がアスファルトを震わせ、波紋のように緑光が広がった。

ウルフカットの黒髪に、鮮やかな緑のインナーカラー。
キャップの影から覗く瞳は、冷たくも笑っている。
彼の周囲だけ、ネオンが生きていた。
それはまるで“世界の残り香”が彼を中心に再生しているようだった。
「……食べるって、生きることだろ?」
「じゃあ、もう食えない世界ってのは——死んでるんじゃね?」
風が止み、遠くで低音が鳴る。
それは“腹鳴り”のようで、街そのものが音を立てて動き出す前兆だった。

「……えっ?」
「……あれ?」
レイスは煙草を咥え直して首を傾げる。
「いやいやいや、俺てっきり——髑髏の騎士とか出ると思ったのに。」
マカは素直に首を傾げて言った。
「竹下通りにいそうなお兄さんが出てきました。」

キガは余裕の笑みを浮かべ、帽子のツバを軽く上げる。
「おやぁ? 空腹時でぶっ倒れないんだ、おたくら。」
「人間も魔族も問答無用でダウンするはずだが……」
指で帽子のツバをパチンと弾く。
「……あ、そうか。——ハーフか。」
「……分析早ッ。」
「いや、落ち着いてる場合かよ。
黙示録の騎士が“あ、ハーフか”って言う時代かよ。」
キガは肩をすくめて笑う。
「俺も時代に合わせてんだよ。古臭い鎧?着ねぇよ。動きづらいし。」
「腹減って動けねぇ騎士なんざ、ギャグだろ。」

「……今“ギャグだろ”って言いました。」
レイスは口元で笑い、煙草の火を赤く光らせる。
「いいじゃねぇか。こういう“話の通じそうな黙示録”のほうが好みだ。」
キガはニヤリと口角を上げる。
「そりゃよかった。」
「でも一応、俺、飢餓の騎士(FAMINE)なんで。」
——その瞬間、地面に描かれた影が揺れた。
ビルの窓が“口”のように開き、街全体が食欲の形を取り戻していく。
ネオンが緑色の津波となり、交差点の全てを飲み込んでいく。

その中心に立つのは——“食うこと”そのものを神格化した存在。
飢餓の騎士・BLACK RIDER、キガ。
都市は腹を鳴らし、彼は笑う。
「なぁ。お前、喰われる側か?それとも、喰う側か?」