空気が、変わった。
それは温度でも、湿度でもない。
質そのものが“胃袋の中”のように変わった。
息をするたび、空気の粘度が増していく。
酸素に混じって胃酸の気泡が揺らめくような——そんな不快な湿り気。
ビルのガラスが次々と曇り、街の音が消える。
遠くのモブハンターたちは一斉に膝をつき、そのまま地面に崩れ落ちた。
蛍光緑の霧が、喉を焼くように漂う。
電線のうなりも、看板の音も、全てが“咀嚼の前の静寂”に変わっていく。
レイスとマカだけが、平然とその中に立っていた。
黒のコートと緑のスカートが、胃液色の風を切る。
そして、路上の真ん中に立つ男。
両手をポケットに突っ込み、片足で軽くアスファルトを蹴るような無造作な立ち姿。
BLACK RIDER——飢餓の騎士・キガ。
「それで、黙示録がわたしたちの世界に何かご用ですか?」
「もう滅んでる感あるんだけどな」
キガは口の端を上げ、帽子のツバを指先で軽く持ち上げる。
光が彼の緑の瞳に反射し、空気が脈打つ。
「オレ、四人の中で一番おきるの遅かったんだ。」
「昔の世界は満たされすぎてた。」
「食べ物があるのが“当然”で、食えない奴が“例外”だった。」
手の中のおにぎりをひょいと放り投げ、キャッチするたび.。
それが少しずつ光を失っていく。
「今さら滅ぼす気なんてねぇよ。」
「オレは、“気高さ”を教えに来たんだよ。」
レイスは煙草をくわえ直し、眉をひそめた。
「……気高さ?」
キガは一歩、アスファルトに足を滑らせるように動いた。
その瞬間、空気が“腹鳴り”のように揺れた。
「“腹が減る”ってのは、自分がまだ“生きてる”って確かめるための行為だ。
それを“恥”と思って隠した時代が——いちばん、浅ましかった。」
その言葉と同時に、彼の足元から緑の衝撃波が弾けた。
音もなく、街灯が吹き飛び、看板がひしゃげる。
ビルの窓が軋み、ネオンが流体のように飛び散った。
レイスは咄嗟に片膝をつき、マカの防御障壁が彼らを包む。
だが次の瞬間、障壁に細かな亀裂が走った。
キガは軽く笑って答える。
「オレは、“腹が減ってる奴”が好きなんだ。」
「欲しいもんに正直だし、飢えってのは、生きる本能そのものだろ?」
空気が破裂し、視界が歪む。
一拍遅れて、レイスの目の前にキガが現れる。
その動きは瞬間移動のようで、風圧が看板を吹き飛ばした。
「でも——満たされきった奴らは、もう死んでる。」
拳がレイスの頬をかすめる。
風圧だけで街のネオンが砕け散り、周囲の霧が裂けた。
レイスは煙草を咥えたまま、親指で頬についた血を拭い取る。
「……言うねぇ。」
「だがな、満たされてても生き延びてるバケモンもいるんだぜ?」
キガは鼻で笑う。
「あんたみたいな?」
レイスは口角を上げた。
「正解。」
緑の光が再び明滅し、都市が息を吹き返すように震えた。
それは、“飢餓”と“死なずの魔人”が同じ呼吸をした瞬間。
この一瞬の静寂のあと、街は再び鳴き始める。
腹の虫の声が、雷鳴のように轟く。
緑の雲が膨張し、都市の上空が“腹の内側”のように蠢く。
レイスは舌打ちしながら掌をかざした。
黒炎が瞬き、指先から鎖が無数に伸びる。
それは燃える蛇のように空を切り裂き、キガの身体を幾重にも絡め取った。
鎖がビルの壁に突き刺さり火花を散らす。
キガの動きが一瞬止まる。だが、止まったまま笑った。
「……はは、いいね、それ。」
開けた口がどこまでも裂けていく。笑いの境界が歪み、黒い闇が覗く。
次の瞬間、鎖が「噛み砕かれた」。
金属音が胃液の泡に飲まれるように消えていく。
「……喰いやがった。」
「んんー……久しぶりに起きて、最初の飯が金属かぁ。」
彼の喉の奥から、どろりと緑の光が滲み出す。
鎖は崩れ落ち、アスファルトが波紋のように“溶けていく”。
地面が、ゆっくりと“食われていた”。
「黒騎士=飢餓。欲望を糧とする黙示録の権能……」
「要するに、喰らうだけ喰って、最後に全部吐き出すってわけか。」
「そう。でも吐く時はな、世界が綺麗になるんだよ。」
緑の光が滝のように降り注ぎ、新宿の街全体が揺らぐ。
ネオンが発狂したように点滅を始める。
“FAMINE” “EAT OR DIE” “HUNGRY”
そのすべてが、鼓動のようなリズムで点滅を繰り返していた。
「おいおい、洒落になんねぇ胃袋だな……!」
「今のうちに距離を!」
「……わかったよ。とりあえず、胃に呑まれる前にな。」
レイスが後方へ跳び、マカの詠唱陣が青く光る。
防御の光が、胃酸のような霧をかろうじて弾く。
周囲のビルが歪み、信号機が“歯”のように立ち並ぶ。
新宿そのものが、“ひとつの口”になろうとしていた。
「飢えろよ、世界。」
「その方が、お前ららしい。」
その声が響いた瞬間、大地が鳴った。
世界が、腹を鳴らした。
——そして、新宿は、喰われ始めた。
街のネオンは、もはや色ではなかった。
蛍光緑が空気を浸し、看板の文字もウイルスのように震える。
空には腐ったスイーツと揚げ物の残像が浮かび、淡い甘い匂いが雨のように降る。
歩道のタイルを叩いた足音は、突然低いうめき声。
複数の胃袋が息をする音に飲み込まれ、街は音の輪郭を失っていく。
地面に触れた靴底から、飢餓の波紋が広がる。
波紋は水とは違って粘り、触れるものすべての温度を奪っていくようだった。
「《封印式・十二の飢門を鎖す》!」
マカの指が空をなぞる。呼吸を刻むように詠唱の音符が出ると、地面に光が走った。
輪が、十二の門を結ぶように、線路のような光の帯が広がる。
円形の魔法陣が街を抱き込み、ビルの足元を一つずつなぞっていく。
光は冷たく、ある種の決意を孕んでいる。
醜い匂いを纏った霧が光の縁にぶつかると、内部で暴れた空気が押し返される。
結界の展開音が胸を叩いた瞬間、街の外側で起きていることは。
少なくともその時点では外へ出ていかなかった。
「これで外への感染は防げます。……中で何が起きても、ね」
マカは息を整え、言葉の終わりを飲む。
結界は薄く震え、内側の霧がガラスを叩くように押し戻されている。
だが押し返されるものの中に渦巻く何かは、結界の隙間を齧るように舌先で味を確かめている。
その嗜好は生温かく、人間の理解を超えている。
結界の内と外を分かつ光の輪は、まるで胃の入り口を模した輪郭のようにも見えた。
街の中心、ネオンの海に黒が落ちる。
黒パーカーの男が立っている。
キャップの影に隠れた目が笑い、口元がゆがむ。
彼はゆっくりと、パーカーの裾をまくり上げるだけの動作をする。
まくり上がった生地の下には、ありえないほど大きな口があった。
赤黒い舌がだらりと垂れ、牙が光る。
ビル群の光がその湿った表面に反射して、いやらしくぬらつく。
「俺を止めるには、ずいぶんチンケな結界だな」
声は甘く、蜂蜜を舌に塗るように優しい。
しかしその声の核には鉄が混ざっている。
聴いた者の体温が、なぜか一度で奪われるように感じる。
男の腹の中から、低いうなりが漏れ出す。
それは世界そのものを喰らおうとする音だった。
「俺の腹んなかにおいで♡骨まで溶かしてやるよ」
その言葉は唇の先で囁かれたのではなく。
結界の内側の空気全体が口語を吐いたかのように響いた。
窓ガラスはすべて曇り、映る人影は皆、苦悶の表情で小さく丸くなっていた。
見えるものと触れるものの間に、ずれが生まれる。
掌を伸ばしても、手の先は錆びた鉄に触れたような冷たさしか返さない。
レイスは、煙草の火を指で消したような仕草で片目を細めるだけだった。
彼の視線は、その巨大な口の中にある。
舌の表面を覆うような粘膜の網目へと吸い込まれていく。
そこには小さな筋肉が蠢き、節くれ立った皺の奥から古い匂いが湧き出していた。
匂いは腐敗と糖と金属が混じり合った、不快な三重奏だ。
金属の味を噛んだようにレイスの唇が動く。彼は言葉を吐いた。
「……喰いやがった」
男はにやりと笑い、言葉を受け流すように。
おにぎりを浮かせて放り投げ、空中でそれをキャッチする。
おにぎりの形はまだ保っているが、米粒の一粒一粒が瞬間的に粘液に変わるのが見えた。
金属の鎖が、彼の口の中に投げ込まれた。金属音が鈍く砕け、鎖が溶ける。
地面がカリカリと咀嚼されるように崩れていき、歩道の目地から緑色の泡が噴き出した。
泡は匂いを帯び、舌の裏側をなぞるように漂った。
マカは手元の詠唱を急ぎ、青い光の盾を立てる。
盾は霧の先端を弾くが、霧そのものが盾の表面にまとわりつき斑点を刻む。
霧が盾を越えると蹲る人間の皮膚が薄く透けて、内臓の鼓動が蛍光で見える。
鼓動はやがて止まり、皮膚は無表情な蝋のように垂れ下がった。
結界の中で無力に倒れる者たちの声は、すぐに飢餓の低いうなりへと変わる。
男の目が淡い緑に光る。
視線は一点へと集まると、世界がその場で引き延ばされたかのように歪んだ。
光が降り、街の破片が吸い込まれていく音がする。
信号灯がパチンと弾け、ガラスが震える。
空気はすでに塩辛さを帯びていて、喉を通すたびに鉄の味がする。
彼の影が伸びると、その先にあるビルの窓が歯の列のように見えた。
誰かが泣き、誰かが呻き、誰かが小さな祈りを漏らす。
祈りはすぐに胃の音にかき消される。
結界の輪の内側で、世界はもう一度自分に問いかける。
「生きてるか?」と。
パーカーの裾を掴んだ手がゆっくり下がる。
男の口角がほんの少し上がった。
舌の先が干からびたキャンディのように光る。彼はまた優しく囁いた。
「おいで。こっちへ。暖かいぞ」
その瞬間、結界の内側の空気が一度だけ凍りついたように静まり、そして一斉に走った。
胃袋の波紋が体を這い、人々の眼球を濡らしていく。
誰かが手を伸ばして、もう一度立ち上がろうとする。
しかしその手の先で、皮膚が音を立てて解ける。
胸の中の何かが、ゆっくりと、しかし確実に消える。
街は食われ続け、背景のネオンは彼の笑顔のために蛍光を強めた。
ここはもう、人間の街ではない。
ここはただ、ひとつの巨大な口なのだ。
キガの腹に開いた“口”から甘い唾液がこぼれ落ち、ネオンの緑を照らしていた。
匂いは砂糖と鉄を混ぜたように濃く、舌の先で街の空気を舐め取っていく。
マカは詠唱の手を止めた。
喉の奥がひとりでに鳴り、反射的に半歩だけ下がる。
「腹に口がある悪魔は初めてですッ……そもそもあれ、悪魔ですか?」
レイスは煙草を外し、真顔でしれっと答える。
「舌テッカテカだなぁ、よだれだぞアレ。」
腹の口が笑った。
キガが「おいで♡」と軽く手招きするたび、腹の口がチロッと舌を出し。
アスファルトに唾液が落ちてパチパチと弾ける。
緑の反射が光のようで、同時に液体そのものが脈打つ生き物のようだった。
レイスは肩をすくめ、片手をピシッと首元に当てる。
「気をつけろマカ、あの腕の範囲に入ったら——これだぞ。」
軽く首を切るジェスチャー。
冗談のつもりの仕草が、まるで死刑の合図のように重く響いた。
キガの表情は奇妙だった、捕食者の冷酷さではない。
そこに浮かんでいたのは、むしろ——慈愛。
だが、その優しさの中には何の希望もなかった。
包み込みながら、逃げるという選択肢だけを世界から消し去る“やさしさ”。
レイスは、理解する。
あぁ、これは一番やばいタイプだ。
「……ガイア系だ。」
煙草の火が、ひと筋の緑に照らされた。
「一番怖いやつだぜ、アレ。」
マカは無言で頷く。
この存在は怒りでも破壊でもなく、抱擁によってすべてを無に還す。
全てを包み、全てを溶かす愛。この街も、命も、記憶さえも。
ふたりは肌で感じ取っていた。
ここで止めなければ、ロストサイド中の命が吸い上げられる。
ネオンの海に、静かな地獄の光が瞬いていた。