街全体が「胃」のように蠢いていた。
地面を蹴るたびに粘液のような感触が靴底を掠め、空気が酸味を帯びている。
霧の向こう、キガの腹に開いた“口”が息づくたび、ネオンの明滅が乱れた。
もう一つの口に呑まれたら終わる。
それを理解するのに、時間は要らなかった。
マカは詠唱を断ち、後衛の位置を守る。
レイスは軽く肩を回しながら、無言で足の感触を確かめた。
アスファルトの上には唾液が滴り、踏みしめた場所がじゅう、と溶けて沈む。
「なぁ。指だけでいいから!」
キガの声は笑っていた。
「やだね!」
レイスは返すと同時に地を蹴る。
空気が裂けるような音とともに、回し蹴りが後頭部に叩き込まれた。
黒いキャップが宙を舞う。
緑の残光を引きながら地面に転がり、乾いた音を立てた。
露わになったキガの髪は、思いのほか普通だった。
少しボサついた、黒に緑のインナーが走る柔らかそうな髪。
だが、キャップの下に隠されていた“後頭部”が蠢いた。
黒髪の隙間から、もう一つの口が現れた。
舌がぬるりと動き、三つめの笑みが夜気を舐める。
「……こういう妖怪いたな。もっとも女だが。」
レイスの声が、わずかに乾いた。
「抵抗しないでくれよ。こっちは寝起きなんだぞぉ?」
キガはあくびを噛み殺すように喋り、腹の口と後頭部の口が同時に“笑う”のが見えた。
街の奥で、犬の鳴き声が響いた。
乾いた咆哮ではない。助けを呼ぶでも、威嚇でもない。
ただ「そこにいる」と主張するような、寂しげな声だった。
その瞬間、キガの首が異様な速度で音の方へ曲がる。
骨が擦れるような音。
人間の可動域を超えた、不自然な角度。
まるで、肉食獣が獲物を見つけた時のようだった。
彼の唇がゆるみ、ほんのり笑っている。
だがその笑みの下には、抑えきれない“何か”が蠢いていた。
掲示板には、色あせた「SDGs」のポスターが貼られたまま朽ちていた。
理想の残骸。口だけの未来。
そのすぐ下、アスファルトの上には溶けかけた服が残っている。
その服を庇うように、犬がいた。
痩せ細り、骨の浮いた体で、
それでも前足を踏ん張って、キガの前に立ちはだかる。
空気が歪むほど、喉の奥から低い唸りが響いた。
キガは歩み寄る。
一歩ごとに、靴底がぬるりと沈む。
足元のアスファルトが“生きている”ように揺れた。
「よしよし……かわいいねぇ……」
その声は、本当に優しかった。
弟か子犬をあやすような、慈しみの声。
指先がゆっくりと伸び、犬の頭の高さまで降りていく。
犬の瞳に、その緑の光が映る。
恐怖よりも先に、信頼が浮かんだ。
——その瞬間、空気が凍る。
「食べちゃいたいくらい!」
その声が終わる前に、キガの腹が大きく開いた。
赤黒い舌が伸び、犬を頭から包み込む。
唾液が飛び、アスファルトに落ちて白煙を上げる。
マカが顔を背け、詠唱のリズムを崩した。
「うわ、エグいなぁ……」
レイスが小さく息を吐く。
「捕まったあと想像したくないです。」
マカの声はかすかに震えていた。
胃袋の街が、またひとつ、静かに満たされていく音がした。
犬を丸呑みにしたあと、キガは何事もなかったかのように喉を鳴らした。
腹の“口”が満足そうに息をつき、ゆっくりと閉じる。
その動作には獣の残忍さよりも、どこか人間的な「仕草」が混じっている。
傍らに転がっていた黒いキャップを、彼は慣れた手つきで拾い上げた。
つばを軽く払って埃を落とし、後ろ手で器用にかぶり直す。
ミリ単位で位置を微調整し、鏡もないのに完璧な角度で止まる。
几帳面な動き。
あの冷気をまとった冬将軍——カリストを思わせる几密さだ。
その顔立ちはどこからどう見ても美青年。
だが、その美しさが形作るのは“救い”ではない。
見てはいけない神性を人の形に閉じ込めたような、そんな違和感があった。
キガはキャップのつばを軽く指で弾き、にこりと笑った。
「しかしおたくら、ほんとに飢えないね。」
声は明るい。遊ぶような調子で続ける。
「すごいすごい♪ でもさ、少しは“食べたい”って言っていいんだよ?」
レイスは鼻で笑い、煙草の灰を落とした。
「こんな空間で食欲刺激しろって? 無理だよ。」
マカは肩をすくめる。
「メシテロでもないと無理です。」
その言葉に、キガが首をかしげた。
一瞬だけ、空気が軽くなる。
メシテロとは?
喰えないメシを見せつけながら美味そうに食べる、精神的拷問である。
※発言者:ユピテル。真に受けないのが吉。
キガはぱちぱちと瞬きをし、口角をゆるめた。
「へぇ〜……意外。メシテロ効くんだ。」
目の奥で、何かがぞわりと蠢く。
唇の裏側から小さな笑いが零れた。
「んふふ……できるよ♪」
その瞬間、空気の密度が変わった。
胃袋の匂いが一瞬で「香ばしい焼き立てパン」の匂いに変わる。
路面に転がっていた骨が、まるでバターのように溶け、緑の光が琥珀色に変化していく。
巨大ビジョンに、とろけるチーズバーガーの断面がスローで映し出され。
油と肉汁が垂れるたびに、通りの空気がじゅわりと熱を帯びた。
ガラス皿の上でパフェが光を反射し、
ホイップを掬うスプーンの銀が、まるで聖遺物のようにきらめく。
それはどれも、実在しない幻影の食だった。
しかし、そこから漂う匂いと温度だけは——あまりに本物。
キガは指先で“いただきます”のポーズをとった。
笑顔は優しい。だがその優しさが、最も恐ろしい捕食だった。
マカが息を呑み、声を詰まらせた。
「……映像が、空気を……満たしてる……!?」
キガはその様子を楽しむように、両手をポケットに突っ込んだまま微笑んだ。
「そう。“見えるけど食えない”。」
「世界中がそうやって、自分を飢えさせてたんだ。」
「俺はただ、再現してるだけさ。」
空気が変質していく。焼けた肉の香ばしさ。
溶けるバターの濃厚な匂い。砂糖の甘さと、油の焦げる音。
それらが霧の粒子に混じり、魔力の媒介として二人の皮膚を刺した。
レイスは鼻で笑い、煙草をくわえた。
「悪趣味だなぁ、黙示録ってのは!」
彼は吸い込んだ煙を無造作に吐き出す。
灰が霧の中で燃え、ほんの一瞬だけ真紅の光が走った。
「いいぜ、好きにやれ。」
「どうせ食わなくても死なねぇからな——俺は。」
キガの口元が緩やかに歪んだ。
笑っている。けれどその笑いは優しさにも似ていた。
「へぇ、不死身?一番“地獄”を味わえるじゃん。」
足元から放たれた衝撃波が、緑の稲妻のように地面を走る。
波動の通った路面が液体化し、ビルの窓という窓から——幻影の食物が滲み出してきた。
バーガーの肉が壁を這い、ケーキのクリームが街灯にからみつく。
油と甘味が混じった匂いが一斉に膨張し、視覚と嗅覚が飢餓のリズムに支配される。
レイスが舌打ちした。
「……なるほど、空間そのものが“胃袋”ってわけか。」
マカは詠唱を再開する。
手のひらの魔法陣が、胃酸のような緑光を押し返す。
「召喚陣展開、いけます!この領域、持たせますからっ!」
レイスは肩を鳴らし、笑みを浮かべた。
「はいはい、胃酸地獄とやらを見物しようじゃねぇか。」
煙草の火が、霧の奥でちかりと灯る。
「どうせ、食われても消化されねぇけどな!」
空気がひっくり返り、重力が反転する。
新宿東口の高層ビル群はゆっくりと波打ち、臓器のようにうねった。
看板の光は全部“口”の形に歪み、街全体が咀嚼するような低音を鳴らし始めた。
新宿の結界は、もはや都市の皮をかぶった胃袋だった。
どこを見ても蠢いている。
ビルの窓は胃壁のように波打ち、ネオンは胃酸の色で脈打つ。
地面のアスファルトすら柔らかく、靴底が沈むたびに“体内音”が響いた。
――飢えたら終わりだ。
それがこの領域での絶対のルール。
キガはゆっくりと、指先をピタリと合わせた。
まるで祈るように、ゆっくり、ゆっくりと手を合わせて。
彼の口元に浮かぶのは「まだかな?」とでも言いたげな、慈悲の仮面。
その目がレイスとマカを見ている。
だが、それはもう“人間”を見ている目ではなかった。
オーブンの中で焼き上がる食べ物を見詰める目。
そこには期待があり、歓喜があり、狂おしいほどの食欲があった。
マカは震える手で詠唱を続けていた。
額の紋章が熱を帯び、白い光が皮膚を焼く。
足元には幾何学模様の魔法陣が、まるで胎動のように脈動している。
「ゼルグライドは大型なのでッ……召喚に最短でも三〇分かかります!」
焦燥に滲む声。
レイスが煙草を口に咥え直し、唇の端で笑った。
「三〇分ね? 長ぇな。」
「その間に俺が消化されてたら、文句言いに来いよ。」
軽口のように聞こえるその言葉。
だが、その声の奥には不死者特有の倦怠と諦観があった。
マカが怒鳴る。
「死なない人ほど言うセリフが軽い!」
「それが、長所でも短所でもあるんだよ。」
レイスは吐き出した煙を、胃酸のような緑の霧に紛れさせる。
霧の中で灰がゆっくりと溶け、煙そのものが食われているようだった。
キガがまた指を合わせる。
だが、その音に合わせてビルが一斉に“蠕動”した。
「……いい匂いがする。」
地面が鳴動し、光の環が胃袋の壁に刻まれていく。
その瞬間、都市全体が心臓のように鼓動した。
胃袋の街に、嘘の光が咲いた。
マカが手を前に翳すと、指先から電子ノイズ混じりの光が立ち上がり、
壊れたネオンの隙間からピエロの仮面が浮かび上がる。
ガラスの破片が宙に舞い、ノイズが弾けるたび、空気がショータイムの合図を刻む。
「虚飾を笑う幻、嘘を映す鏡。——顕現せよ、ジェスター=リリカーナ!」
マカの声が響いた瞬間、崩れた広告看板が閃光に包まれた。
バグったCM映像の中から、左右非対称の服を纏った少女がくるりと回転しながら出現する。
ジェスターハットの星がシャリンと鳴り、足元にハートとノイズの光が散った。
「えへへ、なんだかお腹鳴ってるねこの街。かわいそ〜♪」
「こいつのテンション、胃に悪ィ。」
「へぇ、召喚獣か。……残念。」
「実体がないなら食べられないなァ。」
リリカーナは残念がるキガに指を立て、にっこり笑いかける。
「んー、たしかに! でもね、“食べ物のフリしてる嘘”を食べるのはボクの方なんだよ♪」
パチン、と指を鳴らした瞬間——ネオンが反転する。
街に映っていた飽食の映像がぐにゃりと歪み。
ハンバーガーが笑い、ケーキが手を叩き、甘ったるい狂気が一斉に踊り出した。
「ジェスター、幻の飽食映像を上書きして——“再生”を阻止!」
「りょーかい☆虚飾に虚飾を塗って、あとは……見せるだけぇ〜♪」
瞬く間に、新宿は夢の遊園地へと変貌した。
ケーキがクラップし、チーズがステップを踏み、客席の幻が「おいし〜!」と歓声を上げる。
“飢餓の幻”は、“嘲笑の幻”によって塗り替えられていく。
ガラスがミラーボールのように回転し、皮肉なほどにカラフルなショーへと変わる。
その中心で、キガが腕を組み、少しだけ肩を揺らして笑った。
「……おいおい、演出勝負かよ。」
「この状況で“カーニバル”やるとは、センスあるな。」
彼が片腕を回す。
足元に広がる緑光の波紋が、再び蠢く。
「けど、胃の中で踊っても、消化されるだけだぜ。」
レイスが一歩前に出た。黒炎がその身体を包み、彼の影が歪んで伸びる。
「やれやれ……こっちは胃酸相手に大道芸だ。」
「まぁ、死なねぇ胃の壁くらいにはなってやるさ。」
煙草の火が赤く燃える。
一歩、二歩——黒炎が足跡を残すたび。
アスファルトが焦げ、緑の霧が引いていく。
「不死身が胃壁って、最高の皮肉じゃん。」
その瞬間、胃袋の都市が鳴動した。
光と闇が一瞬で入れ替わり、“食う者”と“食われぬ者”の境界が曖昧になる。
リリカーナの星がちり、と砕け、
ネオンの遊園地が再び胃液色に染まり始めた。
世界はもう一度、咀嚼の音を奏でる。