海編-まだ見ぬ蒼海 - 1/5

潮風が鉄と油の匂いを運ぶ、朽ちた高速道路跡の影。
ルートナギサの朝は、大小さまざまな小型船が行き交う音から始まる。
ペンキの剥げた運搬船、即席で改造された水上バス、
どこか南国リゾートを思わせるカラフルな屋根。
けれどもここは“楽園”とは程遠い、沈んだ旧世界の残響だ。

ドラム缶で遊ぶ子供たちは、誰もが「濡れること」を前提にした服を着ていた。
カラフルなキッズ用レインスーツは、膝もお尻も泥と海水の跡だらけ。
ポケットは大きめ、拾った貝殻やガラクタがぎっしり詰まっている。

靴下なんて履く子はいない。長靴もあれば裸足もザラ。
「また海に落ちるのに、靴下なんて無駄でしょ」
そんな価値観が街に根付いている。
女の子たちは、浮き輪をスカートみたいに腰に巻きつけ。
まるでファッションアイテムのひとつみたいに飾っていた。
ピンクや水色の浮き輪、中には空気を抜いてしなやかに体に巻く子もいる。
「落ちることが日常」
「濡れてもまた乾く、また笑う」
そんな生活を、子供たちは逞しく楽しんでいる。

そのすぐ脇では「おーい、荷物持ってけー!」と船頭が叫び。
即席のクレーンやロープで魚や果物の入った木箱を渡す。
水面には、古びた道路標識や崩れかけた高層ビルの残骸が浮かび上がる。
地盤沈下で大地ごと水に飲まれた。
その壮絶な過去の惨事は、この場所に影を落としていない。

沈んだ都市を受け入れ、新しい“強さ”が生きている。
住人たちの表情はどこか明るく「沈んだ後も、世界はちゃんと続いている」
そんな図太い逞しさが、朝の空気に満ちていた。

真下には瓦礫の迷宮、その先には、どこまでも広がる海。
ひび割れたコンクリ床の端っこに、レイスは煙草の箱を弄びながら座っていた。
ロコはいつものクセで尻尾を揺らしつつ、突然横からズバリ聞いてくる。

「そういえばよ蛇男、海ってどうなってるか知ってんのか?」
レイスは一瞬だけ口ごもり、眉間にしわを寄せる。
「……そういえば、知らないんだよ」
かつての荒野でも、流れ着いた都市でも、海は“語り”でしか聞いたことがなかった。
自分がどこから来たか、誰よりも知っているはずなのに、“海”だけは空白のまま。

「でも航海に出る海好きな奴が言ってた。死にかけるけど――面白いって」
薄暗いスラム酒場の片隅で、古びた革ジャケットのハンターがグラスを傾けながら笑った。
「海はな――過酷だぞ。陸地の荒野も大概だが、板子一枚下は地獄ってな」
「ホントにその通りさ。ひとたび波が荒れりゃ、生きてることが“奇跡”になる。」
ちょっと間をおいて、そのハンターはニヤリと口角を上げた。

「だがな――同じくらい、いや、それ以上に楽しいんだ。
船に乗って風を受けるだけで、大抵のクソみてぇな依頼や憂さなんざ、全部吹っ飛ぶ。
危険も多いが、だからこそ生きてるって実感できる場所なんだよ。」
グラスを空にして、最後はちょっと得意げに――

「それにな……海の上じゃ、とにかくメシがうまい。
潮風に焼き魚、ちょっとした干し肉だって、どんな高級料理よりも五臓六腑に染みるんだ。」
まだ見ぬ海を前に、ロコは水面を蹴って目を輝かせ。
ユピテルは大きく開脚して“これから”を噛みしめ。
レイスはその言葉を心の奥でリフレインする。
「――海は、死ぬほど楽しいぞ。」
目の前の蒼海には未知の恐怖と、ワクワクが背中合わせになっている。

ロコは、しなやかな尻尾を気まぐれに揺らしながら言葉を投げる。
「蛇の癖に、海ダメなのか?」
レイスは苦笑しつつ、視線だけ遠くの水平線にやる。

「……俺は蛇は蛇でもウミヘビじゃねぇのさ。
正直な――海ってやつ、よさが分からねぇんだよ。」
少しばかり、そこに自嘲が混じる。
「景色は、ずっと同じ。風は強い」
「何より、どこまで行っても“帰ってくる場所”ねぇ気がしてな」
指で欄干をトントン弾き、レイスは淡々と吐き出す。
「今までだって、何度か海上ミッションの話は回ってきたけど――
どいつもこいつも“楽しいぞ、最高だぞ”って顔してる奴ばっかで、
逆に身構えちまう。“生きて帰れる保証もねぇのに何が最高だ”ってな。」
遠くの船影に目を細め、ぽつり。

「結局俺は、地べたと路地とスラムの方が性に合ってる。
海ってやつは……まだ、俺には“意味”が見えねぇ。」
ロコは鼻で笑い、耳をパタパタ揺らしながら無邪気なツッコミ。
「じゃあ、これから好きになるかもしれないから気合入れろ!
初めての海、誰だって最初はビビるもんだにゃ!」
“気合”なんて久しぶりに聞いた。
レイスはふと、煙草に火をつける手を止める。

――もしかしたら、好きになれるのかもしれない。
この分かりやすい“バカの勢い”と一緒なら。
海はまだ怖い。だが、知らないまま背中向けて生きるのも――
それはそれで、ちょっとダサい気がしてきた。

「へぇ……見る価値ありそうじゃン?」
古びた屋上から見下ろす景色は、まるで大航海時代が始まりそうな勢い。
水平線までびっしりと、深い群青の海が広がっている。
ユピテルは小さく笑う。

「ネプが言ってたぞ?地球は海のほうが広ェって、だったら見ないでどうする」
その言葉に、レイスもほんの僅かに口角を上げてみせる。
“知らない”は、きっと“始める”理由だ。
ユピテルが無遠慮に口を開いた。

「この世界の海ってどンなンだ?
ソラルの海は大したことなかったし、ここなら“未知”が期待できそうだナ」
レイスはひとつ息をついて、斜め下を見やる。
「なにせこっちは元・地球。あっちは内陸ばっか、海戦もクソもなかったもんな」
ロコは桟橋の端っこで足をぶらつかせながら。
夢見るような目で水面を眺めている。

「…ということは、いまから“初めての海”ってやつだにゃ。なんかテンション上がるー」
ユピテルは屋上の手すりに肘をつき、“行くぞ”の顔で海を見据えた。
「あー、アワビとかねぇかな……食ってみたい。ほら、“高級食材”ってやつ」
レイスは辺りを一瞥しつつ現実的な提案。

「まず“船”がない。水没ビルを伝って対岸まで渡るか……」
「誰かの船に乗せてもらうしかない……だいたいその“誰か”ってヤバい」
ロコは耳をペタンと倒しつつ、半分わくわく半分ビビり。
「ぜったい“出会っちゃいけない人”に出会う流れにゃ」
そう言いながらも、三人とも“行くしかねえ”顔でうなずく。

桟橋の端から、ビルの残骸を伝い、水たまりと瓦礫を慎重に踏み越え。
まだ見ぬ海への“初歩き”が始まった。
その先に待つのは、港の裏側で笑う“ヤバい大人”たちか。
あるいは…伝説級の「海賊団」か。
そして三人の物語は、じりじりと――“本物の冒険”へ踏み出す。

瓦礫を乗り越えて、三人は港の外れまでたどり着いた。
視界の先に、船影がちらほらと浮かんでいる。
ロコは遠慮ゼロで両手を振る。

「お~い!!乗せてくれ!」
レイスは眉間にしわを寄せて止めに入る。
「だめだ!あれは漁船だ。見ろ、道具だらけだろ」
ユピテルはつまらなそうに口を尖らせる。
「じゃ、乗せてくれる船ってどンなンだよ」
レイスは周囲をきょろきょろ見回しながら言う。

「旗だよ、旗を揚げてる船を探すんだ。
港の連中は“旗出してる船=乗せてくれるサイン”って言ってたぜ」
「ドクロ旗じゃないなら、海賊じゃなかったはずだ」
三人の目が一斉に、遠くの船に向かう。
水平線の向こう、ゆっくりと近づいてくる影。
赤い布が、風を孕んで揺れる。
その中央に描かれた――剣を咥えた、オウムの横顔。
歯車の意匠が、刃の根元で鈍く光っている。

「……あ」
ロコが固まる。
レイスは一拍遅れて、手を振った。
「おーい! 乗せてくれないか~!」
満面の笑み。三日月みたいな目。
一切ビビっていない、甲板がざわついた。

そう、三人はすっかり忘れていた――
ジョリー・ロジャー(ドクロ旗)ってのは、
「今から襲うぞ/降伏しなきゃ全員沈める」って時にだけ上げる“死刑宣告”サイン。
常時ヒラヒラさせてる船はいない。
だがもう遅い。三人は、“この世界で一番ヤバい人種”の船へ。
自ら、まっすぐ手を振ってしまったのだった。
「船長!初めてじゃないすか!?」
「俺たちの旗見て、笑顔で手ぇ振ったバカ!」
船首に立つ女が、獰猛に笑う。

「面白いじゃないか!よし、乗船料は――」
指を鳴らす。
「所持金の半分だ」
「……え」
ユピテルが間抜けな声を出す。
「聞いてねェぞ!?」
ロコは額を押さえた。

「……やっぱりにゃ」
ユピテルが財布を取り出しながら、じっとレイスを横目で見る。
「なぁ。ドクロじゃなきゃ海賊じゃねぇ、って言ったの誰だ?」
レイス、目を泳がせる。
「……あれ?そういう認識、間違ってたか?」
「致命的にな」
きっちり、容赦なく、所持金は半分消えた。
甲板に足を踏み入れた瞬間、マリーナがニヤリと告げる。
「安心しな。奪われた金を取り戻すチャンスはやる」
「どういう意味だ?」とレイス。

「簡単だ」
海の向こう、黒く盛り上がる異様な影を指さす。
「討伐チャレンジだ」
ユピテルが舌打ちする。
「マジで“初めての海”が初手から修羅場じゃねぇか」
波の向こうで、何かが――生き物のように、動いた。

海は楽しい。同時に、地獄だ。
そして三人は、もう後戻りできない航海に足を踏み入れた。
完全に、海編スタートだ。