操舵士は操縦輪を握り直し、仲間たちに低く告げる。
「さすが雷様だ。あと一撃食らわせりゃエグゾスも沈むな。
……だが普通の航路じゃバレちまう。ここからは、ちょっと危ない道を抜けるぜ」
海賊船が新たな“ちょっと危ない近道”に舵を切ると。
急に海霧が立ち込め、周囲の空気がどんどん重くなる。
視界は薄暗く曇り、波間には朽ちた鉄屑やゴミ。
そして…なにか異様な形の残骸が浮かんでいた。
ユピテルはデッキの手すりに身を乗り出し、
逆境こそ燃えるタイプらしく、目をキラキラさせてはしゃぐ。
「おい、さっきまで青空だったよな!?」
「この天気、機嫌が気まぐれすぎないか。こういうのイイな!」
「なぁネプ!海って、こんな面白ェ場所だったのかよ。早く言えよ!」
ネプトゥヌスは肩をすくめ、エレガントに微笑んで返す。
「わたくし、いつでもどうぞって申し上げておりましたのよ?」
「ユピテルさんが“水は苦手”って断っていらしただけで」
ユピテルはむくれてごまかす。
「言ってねぇし!……まあ、いいや。今日は全部体験してやる」
そのやりとりを横目で見ていたレイスが、肘をついてぼそりとつぶやく。
「仲良しか…?」
ロコは甲板の端から身を乗り出し、指を差す。
「キャプテン!あそこ、何か浮いてる!あれって船かにゃ?」
マリーナは双眼鏡を素早く構え、鋭い視線で即断する。
「いや、違うね。あれは船じゃない――飛行機さ。」
ロコが首をかしげる。
「え、なんで分かるの?」
マリーナは片目だけ細め、海風に髪をなびかせて説明する。
「ほら、よく見てみな。船ならあんな位置にエンジンは付かない」
「円形エンジンが二基、左右にぶら下がってるだろ?あれは空を飛ぶ機体の作りだ」
操舵士は思わず感心して呟く。
「キャプテン、アンタやっぱ只者じゃねぇな……」
スチーブンも重々しく一言。
「キャプテン。ココ、飛行機墜チタ!注意」
甲板の空気が一段と緊迫し、誰もが“この先の何か”を感じ始めていた。
霧が、音もなく海を呑み込んでいった。
さっきまで光を弾いていた海面は、墨を流したように黒く沈み、
そこかしこに錆びた金属片や、骨のように白い破片が浮かんでいる。
ロープが軋み、帆が低く唸った。
「……カリストさんが語ってくださったお話みたいですわ」
ネプトゥヌスが、いつもの優雅な調子のまま、両手を胸元で揃える。
指先を少し曲げ、肘を浮かせる――
どこか芝居がかった、“あの幽霊の仕草”。
「……こういうとき、“出る”んですのよね?」
その動きはどこか可愛らしく、それでいて“儀式”めいても見える。
ロコがきょとんと首を傾げる。
「何?そのポーズ」
ネプトゥヌスは優雅に微笑みながら答えた。
「カリストさんがやってくださったのが、可愛かったもので……」
「でも、内容は少し怖いものですのよ。船幽霊と言いまして」
甲板の空気が、急に湿り気を帯びる。
レイスが片眉を上げて問う。
「船幽霊?」
ネプトゥヌスは雨粒を指で払う仕草のまま、声のトーンを少しだけ落とす。
語り口は穏やかで、どこか講義めいているのに、内容だけは妙に生々しい。
その後の会話を思い出そうとすると、どうしても別の光景が先に浮かんでくる。
「ネプトゥヌスって、意外と怖い話が好きですよね」
そう言ったときの、自分の声。
そして彼女が、ろうそく越しに微笑んだ顔。
「えぇ。心を鍛えるためもありますが……面白いでありませんか?」
「ホラーも、なかなか奥深いですわ」
その言い方がもう、“怖がらせる側”というより、
純粋にジャンルを愛しているオタクのそれで。
「では、怪談も気に入るかもしれません」
そう前置きしてから、カリストは、少しだけ間を取った。
「私の国ではですね。幽霊は、こういうポーズをしています」
言い終わると同時に、体は横を向いたまま、首だけをくいとこちらへ向ける。
前腕をだらんと垂らし、指先を力なく揺らす“お化けのポーズ”。
困り眉なのに、口元は笑っている。
怖がらせようとしているのは分かる。
分かるのに、どう見ても、どう取り繕っても――。
(……カワイイですわ……)
ネプトゥヌスの思考は、怪談から完全に逸れていた。
ろうそくの火に照らされた銀髪、影で強調される頬の線。
幽霊のはずなのに、怖さより先に「守ってあげたい」が来る。
「……その中でも、特に悪質なのがですね」
カリストは気づかないまま、話を続ける。
「そう。船幽霊です」
低く落とした声。
本来なら背筋が冷えるはずの単語。
だがネプトゥヌスの記憶に残ったのは。
その説明でも、危険性でもなかった。
ろうそくの前で、幽霊の真似をしていた氷の将軍。
怖がらせようとして、失敗している姿。
──怪談は確かに聞いた。
でも、思い出すたびに浮かぶのは、
あのポーズと、あの表情だけだった。
「海の中で、だれにも助けられず溺れ死んだ魂は」
「その恨みから生きている人間が通ると、沈めようとしてくるそうですの」
「通りがかった船に“柄杓(ひしゃく)を貸してくれ”と頼むのです」
「もし、柄杓を渡してしまうと――」
甲板のどこかで、木が軋む音がした気がした。
「渡された柄杓で、船に海水をどんどん注ぎ込み、船ごと海の底へ引きずり込む……」
「どれだけ叫んでも誰にも助けられず、ただただ水が船内を満たしていく……」
「それが、船幽霊のお話ですわ」
少しの沈黙の後、ネプトゥヌスはいたずらっぽく笑う。
「ですから、もし柄杓を貸してほしいと言われたら」
「底に穴を開けてお返しすると良いらしいですよ」
ロコがふるふると震え、「こわい…」と呟き、
レイスは「お前、話すのうますぎだろ…」とぼやく。
ネプトゥヌスの怪談に、甲板の隅で酒を煽っていた航海士が口を挟む。
「お嬢さんの言う通りだ」
「今どきの船幽霊は、昔みたいに着物に三角布ってわけじゃねぇ」
航海士が続ける。
「いっけん普通の人間にしか見えねぇ。でも、見分け方がひとつある」
甲板の空気が、ぐっと冷える。
「“異常に濡れてる”んだよ」
「まるで“ついさっきまで水の中にいた”みてぇに」
ロコが身震いする。
「……リアルだにゃ」
操舵士は苦い顔でさらに続ける。
「“ひしゃく貸してくれ”じゃなく、“スマホ貸して”って言ってきた例もあるらしいぞ」
「“この時代の幽霊”ってヤツも、相当厄介そうだな……」
海霧の奥――本当に今も、誰かが“水を滴らせながら”立っているのかもしれない。
海霧が深く立ち込める中、誰かが甲板にふっと立っていた。
その姿は……見覚えのある服、普通すぎる顔立ち。
ただ一点、“髪も服も全身びしょ濡れ”なことを除いて。
「すみません」
妙に普通の声で、その幽霊は切り出す。
「モバイルバッテリー貸していただけませんか?スマホの充電が……」
甲板にいた一同、言葉を失う。
レイスは思わず呻くようにつぶやく。
「ま、マジで普通だ…!」
ネプトゥヌスは目を見開き、
「こ、これは確かに。知らないと応じてしまいますわ…」
その空気をぶち壊すように、航海士は一切動じず幽霊を睨みつける。
「金持ってるか?」
船幽霊は一瞬きょとんとし「……エッ」と小声を漏らす。
航海士は平然と手を差し出す。
「金払えば“発火しないやつ”用意するよ。モバイルバッテリーの粗悪品はこえぇからなぁ」
幽霊は困り顔でポケットを探りつつ、
航海士が小馬鹿にしたようにツッコむ。
「ていうか、海賊にモバイルバッテリー頼むとか、そもそも持ってねぇよ」
幽霊は、手ぶらで苦笑いしながら答える。
「見ればわかるでしょ!?さっきの飛行機に乗ってたんですよ、僕!!……あ」
ロコは一瞬キョトンとし「……あの飛行機に?」と指をさす。
全員の視線が、霧の中に浮かぶ“墜落機体”へ向かう。
――翼の折れた胴体、裂けた機体。
レイスは黙ってスマホを取り出した。
海の上でも電波は頼りないが、世界はまだ“ネット”と“現実”で繋がっている。
指先で数回タップ、潮に濡れた画面を拭いもせず、即席で機体情報を検索し始める。
機体登録番号:305便
マグノリンク・エアライン305
事故記録:「大災害前年、旧・東京湾上空で通信途絶、墜落。生存者……」
そこでレイスの手が止まる。
表情も声も、やけに静かだ。
「……マグノリンク305便」
「旧東京湾上空で墜落――生存者……」
ロコが、もう震えが止まらず、耳をペタッと寝かせて絶叫。
「うわああああ!それ以上言うな!マジこえぇから!そういうの苦手なんだにゃ!!」
「さっきの幽霊……本当に“あの飛行機”に乗ってたヤツだったんじゃ――」
霧の向こうに今も“水に濡れた人影”が立っている気がする。
レイスはスマホの画面を消し。
「……ここ、現実と怪談がごっちゃになってやがる」とぼやく。
霧の奥、墜落した機体の影がぼんやりと浮かび上がる。
あの日、誰も助からなかった。
その事実だけが、海の底から“新しい怪異”を連れてくる。
甲板の端に、いつの間にか人影が増えていた。
霧が濃くなったわけでも、波が荒れたわけでもない。
最初から、そこに“いた”みたいな立ち方。
「ウフフフフ……」
くぐもった笑い声。
敵意はない。少なくとも、そう聞こえる。
「ただちょっと、スマホを充電したいだけなんですよ?」
男とも女ともつかない声だった。
濡れたコートの袖から、ぬらりと差し出される手。
その掌には――スマホ。
画面は蜘蛛の巣状に割れ、筐体は海水で膨張し、
電源ボタンの位置すら判別できない代物。
「高望みなんてしません」
「港に戻りたいだけなんです」
別の影が、一歩前に出る。
「現在地と同期できなくなっちゃって」
「マップが真っ暗で……ほら、困るでしょう?」
その“ほら”が、やけに人懐っこい。
甲板のあちこちで、同じように手が伸びる。
古い型、新しい型、防水ケース付き、バキバキに潰れたもの。
どれも、二度と使えない。
「帰れないんですよ」
声が、重なる。
一人分じゃない。
「港も」 「電波も」 「時間も」
足元の海が、べちゃり、と音を立てた。
何かが、船底に張り付いた感触。
「だから――」
影たちが、ゆっくりと笑う。
「代わりに、あなたたちの“位置情報”を借りようかと」
ネプトゥヌスは、そのとき気づいた。
彼らは船を沈めるつもりなんてない。
ただ、“乗り換える”だけだ。
壊れたスマホの画面が、同時に光った。
――現在地:未登録。
「体が欲しい」
「通話できないよ」
「頂戴」「頂戴」「頂戴」
スマホを握ったまま、全員が同じ言葉を繰り返している。
マリーナが歯を噛みしめた。
「憑依するタイプか……ちぃっ!」
「一番厄介だね。同業が全滅したんだ」
ロコはもう尻尾が逆立つ。
「海こわっ!? 可愛い話じゃなかったんだにゃ!」
ネプトゥヌスは、いつも通りの笑みを崩さず
「綺麗だけじゃないのが海ですわ」
そう言いながら、すっと手を上げる。
指先から青白い泡が膨れ上がり、結界を展開した。
――泡の壁に幽霊たちがピタリと手を貼り付ける。
「入れて」「入れて」
必死に訴えるその仕草が、妙にリアルで気味が悪い。
「申し訳ありません……除霊は専門外なのです」
「マルスを誘うべきだったでしょうか」
レイスは真顔でぼそり。
「やっぱオタクの大将、仙人なんだな……」
泡越しにうっすら透けて見えるのは――
諦めきれずに“体”を欲しがる、亡霊たちの現実的すぎる顔。
マリーナも一瞬だけ渋い顔をするが。
そのときネプトゥヌスが船の先を鋭く指差した。
「エグゾスが向こうに!」
濃霧の奥、瀕死の機械生命体。
エグゾスが、力を振り絞って水面を這っている。
マリーナは一瞬でスイッチを切り替え、鋭い号令を飛ばす。
「操舵!全力で突っ切れ!」
操舵士が“あいさー!”と叫び、船は全速力で突入する!
幽霊たちの声が風に溶け。
“現実”と“怪談”の境目が、ついに完全にぶっ壊れた――。