海編-まだ見ぬ蒼海 - 5/5

エンジン音が落ち着き、甲板の連中は一斉に息を吐く。
視界の端には、まだ名残のように白い霧が渦巻いている。
やっと霊どもを振り切った…と思った次の瞬間――
マリーナは帽子をグイと後ろにずらし、やや乱れた前髪を指で払う。

「――あ~まったく。これだから飛行機は信用できないのさ」
「大災害の時、空にいた連中が“鳥撃ち”みたいに次々落っこちてたからねぇ」
レイスが横目で覗き込む。
「……大災害?リアルで見てたのかよ」
ネプトゥヌスが冷静なトーンで、だけどちょっとだけ驚いた目つきで呟く。
「あら……とすると、船長。貴女は最低でも――」
ロコが割り込む。
「船長さん、いくつだにゃ? 本物の長生き!?」
マリーナは片手で肩をすくめ、煙草に火をつけながら、
「女はね、秘密で美しくなるもんさ」とニヤリ。

潮風が甲板を抜ける。
一瞬、みんなの視線が「船長、何歳?」に集中するが、
マリーナの目元の笑みと、
“答えは絶対に言わない”という大人の余裕に全員ぐうの音も出ない。
そしてレイスが小声で、「あの人、何歳でも絶対敵に回したくねぇ……」とぼやく。
ネプ様は「素敵な女性ですわね」とどこか敬意すら込めて微笑む。
ロコは「年齢ごまかす大人、なんか好きだにゃ~」とへらっと笑う。
――海はまだ荒れているが、“謎多き船長”が舵を握る限り、そうそう沈みはしない。

岩礁の影。
砕けた波の合間で、エグゾスは身を縮めるように停止していた。
金属の装甲は割れ、焦げ、内部から露出した機構が。
ギチギチとぎこちなく蠢いて、自己修復を試みている。
だが再生は遅く、歪み、何より――痛々しい。
見ているこちらが、ほんの一瞬だけ言葉を失うほどだった。
レイスがぽつりと呟く。

「……陸に打ち上げられて跳ねてる魚って、あぁだよな」
水を求めて跳ね、逃げようとして余計に傷つく。
生きているからこそ、無様になる。
ユピテルは目を細め、鼻で笑った。
「情け無用、だよな?」
マリーナは一切の躊躇なく頷く。
「あぁ。死にかけが一番たちが悪い」
「追い詰められた獣ほど、何するかわからないからね」
サーベルの柄を軽く叩き、号令を落とす。

「仕留めろ!褒美はラム酒だ」
ユピテルの表情が、一瞬で獰猛に変わる。
「よし!」
マストから跳び、雷を纏いながら一歩踏み出す。
「ザコの分際で、この俺に手を下してもらえるンだ」
「――光栄に思えェ!!」
空気が張り詰め、雷鳴が、再び海を割る。
この瞬間、エグゾスにとって“逃げ道”は完全に消えた。
それは討伐であり、処刑であり、伝説の締めだった。

船首から睨みつける位置に、ユピテルは立った。
マントが風を孕み、ばさりと大きく翻る。
足元では波が砕け、船体がきしむ音を立てているが。
そんなもの、彼の意識には一切入っていない。
「……あぁ、やっぱ海は最高だな」
低く、楽しげに呟く。
次の瞬間ユピテルは両手を前に突き出した。
空を指すのでも、雷を呼ぶのでもない。
狙いは――岩礁にしがみつく、瀕死のエグゾス。

両腕に走る雷光。
肩から肘、指先へと収束していく稲妻が、空気を裂く音を立てる。
レイスが思わず叫ぶ。
「おい待て、それ……雷“魔法”じゃねぇぞ!?」
ネプトゥヌスが息を呑む。
「雷を……溜めて、放つ……!? 自分自身が媒体……!」
マリーナは口角を吊り上げた。
「ははっ、聞いてねぇぞ……砲台まで兼ねてるとはな!」
ユピテルは、ニヤリと笑う。

「勘違いすンなよ!俺は“雷を呼ぶ”だけじゃねぇ」
そのまま、低く言い放つ。
「――雷そのものだ」
次の瞬間、両手から放たれた雷は。
“落雷”ではなく、一直線の光線だった。
海面を裂き、空気を焼き、雷のビームがエグゾスを正面から貫く。

「エネルギー反応……規格外……」
「回避不可能……最終――」
言葉は、最後まで届かなかった。
金属の鰭が溶け、内部機構が白熱し、岩礁ごと閃光に包まれる。
爆ぜる音すら、雷鳴に掻き消される。
一瞬の静寂。
そして――海に落ちるのは、黒く焼け焦げた残骸だけだった。
ロコが、ぽかんと口を開ける。

「……雷って、撃てるものだったにゃ?」
レイスは乾いた笑いを漏らす。
「誰もそんな仕様、聞いてねぇよ……」
ユピテルは両手を下ろし、肩を鳴らす。
「ふぅ……魚は焼いた方が美味ぇってな」
マリーナが高らかに笑った。
「決まりだ!エグゾス討伐、完了!」
「伝説一丁上がりだ、野郎ども!!」
嵐は、ゆっくりと収まり始めていた。

だがこの航海の噂は、雷が消えたあとも海に残り続ける。
“マストに立ち、嵐を従え、雷を撃った雷将がいた”
という話として。
技師が計器から顔を上げ、静かに告げた。
「――エグゾス、沈黙確認。反応、完全消失です」
甲板に、ほっとした空気が流れる。
風はまだ強いが、さっきまでの殺気じみた圧は、確実に消えていた。
ネプトゥヌスは一歩前に出て、海へ向かってそっと両手を重ねる。

「……また一つ、命が海に還りましたわ」
声は小さいが、はっきりしている。
雷に焼かれ、機械として生まれ、機械として沈んだ存在。
それでも、海の女王は等しく祈る。
マリーナは双眼鏡を覗いたまま、低く唸る。

「……アイツは、もう地平線に見えないな」
「一ヶ月は、あそこに居座ってたってのに」
スチーブンが、マストの影から顔を出す。
「アー。キャプテン」
「奇怪島、マタ移動シタ」
その一言で、マリーナは察したように鼻で笑った。

「やっぱりか。落ち着きのねぇ島だね」
双眼鏡を下ろし、軽く肩を回す。
「こりゃ今夜いっぱい進まなきゃな」
一瞬、船の進路を見渡してから――彼女は、くるっと振り返った。
「……よし!」
その顔は、もう“戦場の船長”じゃない。
完全に“宴の主催者”の顔だ。
「釣り竿を持て!エグゾス討伐祝いだ、盛大にやるぞ!!」

「待ってました!」
「やっと平和な仕事だな!」
「うおおお!!」
一気に甲板がざわめき、武器だったものが酒樽や竿に置き換わっていく。
ロコは目を輝かせる。
「え、今から!?」
「夜の海で釣りって、なんかロマンあるにゃ!」
レイスは肩をすくめつつ笑った。

「命がけの次は、飯がけか……」
「まあ、この船らしいな」
ユピテルは手を伸ばして、潮風を掴むような仕草をする。
「嵐のあとに酒と魚か……悪くねぇな」
ネプトゥヌスは微笑み、海を一度だけ振り返った。
「さぁ、今夜は海も静かですわ」
「亡くなった方々も、きっと――賑やかな方が、お好きでしょうし」
船は進む。
奇怪島を追い、幽霊と雷と機械の夜を背に置いて。
そして、この航海は“伝説”から“思い出”へと変わり始める。

夜の海は、昼とはまるで別の顔をしていた。
波は穏やかで、船の軋む音もどこか規則正しい。
甲板のあちこちで、子分たちが釣り糸を垂らしている。
レイスは慣れた手つきで仕掛けを整え、
ロコは落ち着きなく、糸の先を覗き込みながらしっぽを揺らしていた。

「来たかにゃ!?」
「いや、それただの波だ」
そんなやり取りを、少し離れた場所から眺めながら、
ユピテルは樽に腰掛け、ラム酒を一口あおる。
喉を焼く感覚に、思わず息を吐いた。

甲板の片隅。
夜風に吹かれ、海の静けさが戻った船上で、
ユピテルはラム酒のボトルを片手に、グラスにゆっくりと注ぐ。
その手つきは妙に手慣れていて、鼻先に近づけて香りを確かめた。
「……キャプテンモルガン、だな」
低く呟いて、一口――だが、すぐに眉をひそめる。
「……けど、ちょっと違うか。ブレンドか?樽か……妙にバニラが強いな」
さりげなくグラスを傾け、舌の上で転がしてから飲み込む。
一瞬、昔のどこか港町で飲んだ記憶と比べてみるような目。

「……まあ、どっちでもいいか。うまいし」
微かな笑みで空を見上げるユピテル。
その後ろでは、夜釣りに興じるレイスやロコ。
子分たちの声が、潮騒とラムの香りに混じって漂っていた。
技師が工具を拭きながら、淡々と答える。
「海賊にとって酒は、ただの娯楽ではありません」
ユピテルが眉を上げる。
「ほぉ?」
「壊血病予防になる、と言われています」
「海では、安定して野菜は食べられませんからね」
ユピテルは一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。
「……命懸けの仕事に、酒が“必需品”ってわけか」
もう一口、ラムを飲む。
遠くで、ロコが歓声を上げる。

「釣れたにゃ!!ちっちゃいけど!!」
レイスが苦笑する。
「それはリリースだ。食うには可哀想だろ」
ユピテルはその様子を眺めながら、夜風に髪を揺らした。
「戦って、釣って、飲んで……海賊ってのも、案外悪くねぇな」
技師は少しだけ口元を緩める。

「そうでしょう。海では、“生き延びること”そのものが文化ですから」
ユピテルは空になりかけた杯を傾け、静かな海を見つめた。
嵐は去り、怪異も沈み、今夜はただ。
釣り糸と酒と、穏やかな時間だけが流れていた。
雷将がそう感じるほどには、
この海は、もう敵ではなかった。

夜の甲板。
静かになった海に、油のパチパチとはじける音と、
モブたちの魚捌きの手際だけが小気味よく響く。
ベテランおやじがラム片手にぽつりと語り出す。
「大災害――あれは皮肉な話だがな……」
「俺たちみたいに、もともと“モラルがよろしくない”連中には」
「むしろ歓迎された部分もあるんだよ」
レイスが肩で笑い、夜風にタバコの煙を流す。
「国境も、法律も、海の支配者も全部ブッ壊れて――」
「今じゃ海は、誰のものでもない。昔の“国の海”より、よっぽど自由だ」
「ルートナギサが、妙に明るいのはそのせいか?」
おやじは短く笑う。

「あぁ、あの悪名高いポセイダル・マリンシステムが沈んだのもデケェだろうな。
昔は『人類に第二の大陸を!』だの夢見てたくせによ、
フタ開けてみりゃ、社畜と夢喰いイルカのブラック企業だったってオチよ」
ロコは魚を骨抜きにして、ぽいぽい油鍋に投げ込みながら首をかしげる。

「あのイルカの会社、そんなブラックだったのかにゃ?」
おやじは肩をすくめてラムを呷る。
「まぁな、大抵のクソ企業はそんなもんだが」
「沈まなかったカルディ重工だけは、何故か今も嫌味っぽく生き残ってるしな……皮肉だぜ」
レイスが低く笑って応える。「生き残るのは、大体どっか“壊れてる”奴らだけさ」
鍋から揚がる魚フライの匂いと、解放された夜の海風が、
この自由な世界の“いま”を象徴する――

“大災害”は、真面目な奴ほど潰し。
しぶとく、ずる賢く、ちょっとクズな奴らに「楽園」をくれた。
今夜の宴は、その証明そのものだった。