海編-宝島は、島ではない - 2/5

船から砂浜へ足を下ろした、その瞬間だった。
岩と砂の境目、視界の奥に――
廃材と流木を寄せ集めた“集落”が、当たり前みたいに存在していた。
焚き火の前で魚を焼く男。海水で洗濯物を叩く女。
漂着した浮き輪を転がして遊ぶ子どもたち。
どれもこれも、あまりにも“普通”だ。
「よぉ、新顔か?」
「まず腹ごしらえしていけや!」
気の抜けた声が飛ぶ。
警戒も敵意もなく、ただのご近所テンション。

ロコが目を丸くする。
「……あれ!? 人間いるの!?」
船員のひとりが、思い出したように頷いた。
「聞いたことはある……」
「奇怪島はな、食いきれなかったニンゲンは殺さず、そのまま引き揚げるって」
レイスが一拍置いて言う。
「……つまり、あとで食べるために“ストック”してる」
「ブラックすぎねぇか?」
否定は、誰もしなかった。
そのとき、集落の中央から、年配の島民が前に出てくる。
表情は妙に真顔で、冗談の余地が一切ない。

「あんたら――“単目の魔物”は、絶対に殺すなよ」
空気が、少しだけ変わる。
「あれはこの島の……そうだな。白血球みたいなもんだ」
視線の先、瓦礫の陰から、巨大な単眼がぬっと覗く。
歯が数本、不揃いに生えた不気味な口。
形容するなら、悪夢のラクガキが立体化したような存在。
だが――こちらが動かなければ、向こうも動かない。

島民の子どもが、その魔物の足元に落ちていた貝殻を拾って投げる。
単目の魔物はそれを器用に口で受け取り、ゴミ溜めの方へ運んでいった。
「……ゴミ処理と、死体片付け担当さ」
「怖がってもいい。だが絶対に手ェ出すな」
念を押すような声。
奇怪島は、ただ食う怪物の背中ではない。
生き延びた人間と、役割を持つ“魔物”が共存する、歪な日常だった。
ロコは小さく呟く。
「……島、思ってたより、平和だにゃ」
その“平和”が、いつまで続くかも知らずに。

薄明はいつの間にか溶けきって、空には澄んだ青が戻っていた。
朝だ。ちゃんとした朝。
気づけば海賊団の一行は。
「どうぞどうぞ」「遠慮すんな」と押されるまま、
島民たちと同じ焚き火を囲んで腰を下ろしていた。
今日の朝食は海藻の天ぷら。衣は薄く、油は軽い。

「塩は海由来だから、つけすぎないでね」
そんな注意が飛ぶあたり。
ここが“人を食う島の上”だという現実が、ますます遠のいていく。
レイスが箸を動かしながら「……普通にうまいな」と小さく呟く。
ロコは揚げたてを頬張って、しっぽを揺らしている。
ネプトゥヌスは上品に口元を押さえ、「野趣がありますわ」と感想を漏らした。
そのときだった。

とてとてと、小さな足音。
五歳くらいの女の子が、焚き火の縁までやってくる。
両腕で大事そうに抱えているのは、
毛が抜け、片目の取れた――ボロボロのクマのぬいぐるみ。

「ねぇ、おにーちゃん、おねーちゃん」
澄んだ声。
人見知りの影すらない。
「どこからきたの?」
ユピテルが一瞬きょとんとし、それからいつもの調子で口角を上げる。
「ン?ユピテルさンはね、海の向こうから来たンだよ」
「海の向こう?」
ミナは首を傾げる。
本気で、地図の存在を知らない顔。

「向こうって、あるの?」
すぐそばで、少し年上の子が慌てて声をかける。
「ちょっとミナ……今日来たばかりの人に」
けれどミナは気にする様子もなく、今度は誇らしげに胸を張る。
「ねぇねぇ、友だちも紹介するね」
ぎゅっと、クマのぬいぐるみを抱きしめ。
それをみんなに見せるように掲げる。
「これ、ママのかたみなの」
その言葉が落ちた瞬間、焚き火のはぜる音だけが大きく聞こえた。

島生まれ、島育ち。
外界を知らない子ども。
“楽園”に取り残された、最後に守られたもの。

誰も、続きを聞こうとはしなかった。
それでもミナはにこにこしていて。
クマのぬいぐるみは、何も語らずそこにあった。
朝の光は平等に降り注ぐ。
この島の歪さを、優しく包み隠すように。

焚き火のそばで、海藻天ぷらをひっくり返していたおばちゃんが、
油の音に混じってぽつりと言う。
「この島はね、クラゲ様に生かされてるんだよ」
「変なことすりゃ即、海の藻屑さ」
その言い方があまりに自然で、脅しでも教訓でもないのが背筋にくる。
レイスは箸を止め、肩をすくめた。
「……つまり俺たち、寄生虫扱いってわけか」
向かいに座っていた青年が鼻で笑う。

「ハッ。ここじゃ細けぇこと気にしてたら死ぬぜ」
「寄生虫だろうが島民だろうが、生き残ったもん勝ちさ」
その視線の先――瓦礫の向こうで、単眼の魔物がじっとこちらを見ていた。
巨大な一つ目。歯が数本、不揃いに覗く口。
動かない。ただ、警戒している。

レイスが低く声を落とす。
「おい……絶対、石とかぶつけ――」
――遅かった。
不運は、いつも最悪の形でやってくる。
ロコがさっき投げ捨てた魚の骨。
風に煽られ、転がり、ピンポイントで単眼の魔物に――ぶっ刺さった。

一瞬の沈黙。
次の瞬間、地面がうねった。
草陰、瓦礫、流木の隙間から、歯の生えた異形がわらわらと湧き出す。
白血球、寄生排除機能、島本体の免疫反応。
「異物(寄生虫)は徹底排除」ルール、発動。

「うわ、やっちまったな~」
島民たちは苦笑いで立ち上がり、慣れた動きで一斉に退避を始める。
「ほらほら、子ども連れて下がれ!」
「今日は運が悪かったねぇ!」
置いていかれる側の悲鳴が、ジャングルに響いた。

「お前ェェ!!なんでそんな絶望的に運ねぇんだよおおおおおお!!」
「こないだ初詣でお祓いしてもらったのにぃいい!!」
背後から迫る歯の群れ。前方は見知らぬ密林。
完全に詰み――のはずなのに。

ユピテルは、腹を抱えて笑っていた。
「アハハ!こうじゃなきゃなあああ!」
ネプトゥヌスは走りながら、感心したように言う。
「あらあら~。さすがクラゲさんの島」
「地面の反応、普通の島とはぜんぜん感触が違いますわ~」
マリーナは振り返りもせず、叫ぶ。

「止まるな!走れ!幽霊は捕まらねぇんだろ!?」
四人と船長は、どこか楽しそうに、どこまでも必死に。
奇怪島のジャングルを駆け抜けていく。
死にかけている。間違いなく。
――だが、この島ではそれすら、日常の一部だった。

歯の魔物の群れをどうにか振り切り、五人はようやく足を止めた。
湿った息遣いが、ジャングルの中で重なる。
地面は柔らかく、踏みしめるたびにぐに、と遅れて沈む。
まるで腐葉土ではなく、巨大な筋肉の上を走ってきたかのような感触。
ロコが膝に手をついて、ぜぇぜぇ言いながら愚痴る。
「はぁ……やっぱあの神社、評判悪いから行かなきゃよかった……」

ジャングルの奥、ぬかるむ地面に腰を下ろした五人。
息は荒く、足元は泥と草にまみれているけど、生き延びた安堵が空気を和ませていた。
誰かがどこかで落とした焚き火の火種、微かな煙の匂いが漂う。
ロコがしっぽで地面をトントンしながら、ふと思い出したように口を開く。

「……オレさ、初詣行ったんだけど、マジで全然ご利益なかったにゃ」
ユピテルが片眉を上げ、胡乱げに問い返す。
「なぁ、確認するが……お前、どこ行った?」
ロコはどこか誇らしげに――だがすぐに後悔が滲むトーンで答えた。

「は? なんとか八幡宮ってとこだが? みんな地元じゃ“厄八さん”て呼んでたぞ」
その瞬間、ネプトゥヌスが「まぁ…」と声を漏らし、マリーナは小さく吹き出す。
ユピテルは一拍おいてから、ため息まじりに突っ込む。
「お前さァ……そこは厄落とし神社だぞ。初詣で厄持ち帰ってどうすんだよ」
ユピテルが「あの神社は厄落とし特化だぞ」と即答できたのは。
過去にカリストから“神社の違い”をレクチャーされたことがあるからだった。

――数年前の雨の日。
異国の民俗資料を調べていたカリストが、淡々と語っていた。
「ユピテル様、日本には“縁を切る神社”と“縁を結ぶ神社”が存在します」
「神の性質を間違えると……ご利益どころか災いが降りかかることもございますので」
ユピテルは興味なさげな顔をしていたが。
「要するに、選び方をミスると“バッドエンド直行”ってやつか」と一言で理解。
カリストは静かに微笑んで頷く。
「はい。くれぐれも、目的と違う神社にはご注意を」と釘を刺していた。

だから今、ロコが「なんとか八幡宮」と言った瞬間。
“厄落とし系=初詣で行くと逆にヤバい”という知識が脳内で点灯したのだ。
「カリストが言ってたんだよ。“神の性質を見極めるのが大事”だってさ」
と、ユピテルはさらっと口にする。
ロコは尻尾を逆立てて叫ぶ。
「ええ!?そういうの、初詣行く前に言ってくれよ!!?」
「なんか参道も境内も、みんな顔色悪かったんだにゃ……!」
ネプトゥヌスは扇子を畳みながら優雅に微笑む。

「厄払いには最高でしょうけど……ご利益はまた別の話ですわね」
マリーナが肩をすくめてまとめる。
「年始に運気を置いてきて、世紀末を生き抜く。それもこの世界流ってやつさ」
ネプトゥヌスは息ひとつ乱さず、楽しそうに微笑んだ。
「ふふ。パワースポットにも相性がありますものね♪」
レイスは周囲を見回しながら、眉をひそめる。

「……しかし走ってて思ったが、この歩く感触さ……」
マリーナが低く頷く。
「あぁ。なかなか気持ち悪いね。島ってより、生き物の腹の中だ」
五人は同時に気づく。
ここは“島”ではない。生き物なら――
「呼吸するための穴がある、循環するための道がある」
マリーナがゆっくりと視線を巡らせる。
風の流れ、湿度の偏り、どこかだけ脈打つように揺れる草木。
「必ずどこかにあるはずだ」
彼女の声は静かだが、確信に満ちていた。

「あいつの心臓に通じる道が」
遠くで、島全体がはっきり脈打つ。
それは警告か、それとも――歓迎か。
奇怪島は、まだ本気を見せていない。