海編-宝島は、島ではない - 5/5

そこはもう、“島の中”というより巨大な鼓動の渦だった。
ピンク色の壁がうごめき、踏みしめるたびに足元が柔らかく沈み込む。
世界が脈動し、空気そのものがゼリーのように弾む。
中心には、青白く光る――宝石めいたゼリー状の心臓核。
波紋のような微かな光が、空間の隅々まで脈打つたびに伝わっていく。
マリーナが前に出て、低くつぶやく。
「……あれが、こいつの心臓」
だがその声が響いた瞬間、五人の意識はふっと遠のく。
世界がひっくり返り、まぶたを開けた時には――夢の中にいた。

最初に違和感に気づいたのはロコだった。
「あれ!!?さっきまでオレたち、クラゲの中にいたはずだぞ!?」
返事は、どこかから響く賑やかなアナウンス。
「ブルーカナリア号へようこそ!」
「ごゆっくり楽しんでいかれてください!」

目の前にはきらびやかなシャンデリア、白いクロスのディナー卓。
甲板からは宝石みたいな海が広がる――。
いつの間にか“豪華客船”の世界に閉じ込められていた。
レイスが眉をしかめ、周囲を観察する。
「……はめられたな、キャプテン」
マリーナは苦い顔で舌打ちした。
「ちっ……!」
それでも“夢”は容赦なく、彼らを幸福のなかへ取り込んでいく。

レイスは、どこか見知らぬ家族とディナーを囲み。
「今日は海がきれいだ」と微笑む自分にすら違和感を覚える。
ネプトゥヌスは、豪華なサロンで「海と宝石と音楽」に囲まれ、
見知らぬ誰かに手を引かれて――軽やかなステップで舞い踊る。
ユピテルは壊れていないティーカップを手に。
「完璧なもの」ばかりの宴に、心底退屈そうに肩をすくめる。

ロコは小さな子供たちと浮き輪でじゃれ合い。
“家族”になった夢の中心で無邪気に笑っている。
マリーナは満艦飾の船の上。
「何も失われていない」景色をただじっと見つめていた。
あまりにも心地よすぎる“夢”に五人は囚われていた。
現実がどこにあるのかも、もう分からなくなりそうなほどに。

♪~

それは、どこか遠い海の底から響くバイオリン。
音が揺れて、夢の世界に波紋を広げる。
その旋律が空間全体に溶け込み――レイスが息を呑んだ。
「あの音色は!」
ロコもすぐ反応する。
「あの女神様だにゃ」
ユピテルは目を細める。
「だよなァ。沈む前に時間が戻ってるてことは……!」

“在りし日のブルーカナリア号”。
そこには音楽と、幸福と、――彼女がいた。
バイオリンを肩に担ぎ、ドレスの裾をふわりと揺らし。
優雅に、どこまでも美しく弓を引く。
楽団も、聴衆も、シャンデリアも――ぜんぶ、夢のような残響。

その中心、「輪郭だけ」しか見えない彼女。
ふいに演奏の手を止め、こちらを真っ直ぐに“観る”。
声は届かない。でも空気そのものが意味を伝えてくる。
澄んだ静けさが心に刺さる。

「この船は、海の底に沈んだその日から……自分が死んだことを理解できていないのよ」
透明な視線が、レイスに届く。
レイスはわずかに身を強張らせて、「つまり……地縛霊?」
ロコはしっぽをふるわせて、「え?じゃ、なんであんただけは話せるんだにゃ」
女神の輪郭は、柔らかく微笑んだ。
それさえ、ここでは「そう見えた」だけなのかもしれない。

「ええ、たぶん……良くも悪くも、演奏にしか興味がなかったからかもしれないわ」
「名誉も、お金も、家庭を持つことにも……てんで興味がわかなかった」
「バイオリンさえあれば、私は“生きていける”気がしていた」
「……だから、今もこの場所に残っているのかもしれないわね」

音も匂いも色も、すべてがぼやけた夢の中。
ただその“輪郭”だけが、バイオリンを抱き続けている。
誰よりも音楽を愛した魂は、名誉も地位も幸福も、すべて手放し。
「音色そのもの」だけを永遠に追い続けている。
その美しさも哀しさも、船とともに、いまこの幻想の世界を漂っていた。

レイスが一歩前へ出る。
影の中、真顔でバイオリンの女神に問いかける。
「じゃあ教えてくれよ。この船は……どうすれば“思い出せる”?」
「自分がもう、死んでいるってことを」
輪郭だけのアドリアン女史は、一瞬だけ黙り込んだ。
遠くでバイオリンの弓が静かに空を切る――その音だけが響く。
やがてネプトゥヌスが、ため息まじりにそっと横から囁く。

「……難題ですわね。地縛霊に“死”を自覚させるのは、本当に難しいこと」
「マルスも言っていましたわ。人は自分の終わりを、なかなか受け入れられませんもの」
レイスが困ったように舌打ちしかけた時、アドリアン女史の“輪郭”がこちらを見やる。

「……今の、この船の姿を、私に見せてくれないかしら」
その声は、風の音のように淡く、それでも確かに響いた。
「貴方たちが見てきた、この船の姿を――ありのままに」
“この夢を終わらせる覚悟があるなら。
私の“死”も、あなたたちの“現実”も、真正面から受け入れてみせるわ”
まるで、そう語りかけるように。

レイスは黙って頷く。
ネプトゥヌスも息を呑んだ。
今の廃墟、崩れた壁、泥にまみれた食器、失われた音楽。
“現実”を、輪郭の女神にぶつけるその時、夢の幕は下りていくのだ。

レイスが最初に口を開く。
手のひらにオルゴールを握りしめたまま、
できるだけ優しい言い方を選びながらも、
現実からは逃げなかった。

「……あんたがいた部屋は、そうだな。暈した言い方になるが――
部屋の半分以上が、もう溶けてる。溶解液と、クラゲの内臓みたいなものでな。
バイオリン以外は……全部、なくなってた」
輪郭だけの女神が、わずかにまぶたを伏せて呟く。
「……やはり、そうだったのね。
あれは海水じゃない気がしていたのよ――最期の瞬間も」
次にネプトゥヌスが手のひらのカナリア・ブローチを見つめながら続ける。

「食堂も、かつての賑わいは微塵も残っていません。
銀の食器は泥に埋まり、壁紙も床も、もう“船”の形ではありませんでした。
でも、この小さなブローチだけは……泥の中でも光っていましたわ」
輪郭が静かに微笑む。「大事にしてくれてありがとう。たとえ泥の中でも、ね」
ユピテルは、割れたティーカップを掲げて乾いた笑いを漏らす。

「宴会場も、完璧な“美”はもうどこにもなかった。
割れたカップ、ちぎれたカーテン、残ってるのは“欠けたもの”」
輪郭はしばし黙ってから答える。
「それでも、誰かがそれを美しいと感じてくれるなら――幸せよ」
ロコは浮き輪をぎゅっと抱えながら、どこか子供みたいな表情で。

「ガキの遊び場だったとこも、全部ぐちゃぐちゃ。
浮き輪だけ、かろうじて残ってたけど――
あとは、全部飲み込まれて消えたんだにゃ」
輪郭は「それでも、守ってくれたのね」と囁く。
最後にマリーナが、バイオリンの弓を撫でながら、まっすぐ告げる。

「……金にも宝石にもならないものばかり。
だが、このバイオリンの音色だけは、いまも“ここ”に響いてる」
輪郭だけのアドリアン女史が、静かに頷いた。

「ありがとう――それで十分、分かったわ。
船も、私も、もうとっくに“夢”の外側にいるのね」
幻想の残響がひとつ、またひとつと消えていく。
でも“語られた現実”だけが、輪郭の奥に、確かな静けさを残していった。
マリーナは、バイオリンの弓を最後に一度だけ撫でて。
苦笑いと本気のエールを混ぜた声で告げる。

「こいつを再び弾きこなせるやつがいるかは、わからない。
だが“ダーティフリー”のマフィアどもは血眼で直そうとするだろうさ。
アドリアン、あんたは安心して旅立ちな」
残留思念の“輪郭”は、そこでほんの一瞬、嬉しそうに笑った気がした。
「ええ……本当に、これで終わりなのね」
夢のような音色、思い出だけを残して、輪郭だけの彼女は、静かに消えていく。
最後に一言、あの世のサロンからのように、柔らかく、艶やかに響く。

「ごきげんよう。貴方たちの“五重奏”が、続かんことを――」
ふわりと消えていく音符、もう誰の姿も残らない。
サロンの空気は静まり返り「夢」はとうとう、終わりを迎えた。
だがその静寂の中で、それぞれの胸に。
“何かが受け継がれた”という温もりだけが、確かに残った。

幻想が音もなく消えた次の瞬間――
サロンの華やかな残像は一瞬で吹き飛び。
視界いっぱいにグロテスクな心臓部が広がった。
どくん、どくん、と生々しい鼓動。
ピンク色の有機質が脈打ち、壁も床も天井も、今やすべて“生きた肉”そのもの。

巨大なゼリー状の球体が中央に脈動し、血管のような管が絡みつく。
粘液、ぬめり、どこからともなく漂う生温い潮の臭い。
“生き物の体内”を、誰もが否応なく突きつけられる。
ロコが一歩引いて、思わず絶叫。

「なんだあれ!?キモいんだが!!!」
しっぽも耳も逆立て、全身で“拒絶”を表現。
レイスは顔をしかめて、「幻想の方がまだマシだったな……」と呟き。
ユピテルは「まぁ、これが“現実”ってヤツだ」とシニカルに笑う。
ネプトゥヌスは表情を保ちながらも、さすがに「うわ……これは……」と動揺を隠せない。

マリーナは即座に銃を抜く。
「――さぁ、ここが本当のラストステージだ。全員、覚悟はいいかい?」
と低く号令をかける。
目の前の異形は、夢も幻想も食い尽くした“本性”そのもの。
吐き気と恐怖、その奥で全員の“生きたい”本能がビリビリに研ぎ澄まされていく。

グロテスクな心臓部の前、全員が息を呑む中――
マリーナはバイオリンの弓をキリッと掲げ、フリントロックを片手に宣言する。
「私が一撃で、奴をぶち抜く!!お前らは照準がズレねぇよう、土台を整えてくれ!」
その声が反響するたび、心臓核がどくんと揺れる。
ユピテルは得意げに指を鳴らす。
「わぁったよ、舞雷(ぶらい)!!――獲物だ!」
指先に雷を宿し、いつでも“増幅”できるよう魔力を放電し始める。

レイスは苦笑しながら、仲間を見回す。
「五重奏、ねぇ……。誰が何担当だと思う?猫」
ロコは急に緊張と照れで耳をパタパタしつつ。
「……リズム隊? なんか裏方っぽい仕事がオレに回ってくる気がするにゃ」と愚痴る。
ネプトゥヌスはにっこり微笑む。
「わたくしはハープを志望しますわ。
優雅に、しなやかに――“足場作り”と“回復”はお任せください」
レイスは「んじゃ、俺は……ギターでいいや」と肩をすくめ。
「猫がリズム、姫がハープ、俺がギター、雷は――まあ“ドラム”か?」
と即興で割り振る。

ユピテルは不満げに。
「ドラム!? バンドの主役はだいたいヴォーカルだろ!!」と抗議するが。
マリーナが「今日は弦楽五重奏だ。ドラムは無し」ときっぱり。
「……なるほどね」
「全員で“楽器”をそろえて、一発ぶちかますってわけか」
鼓動が早まる。魔力が軋む。
銃と雷と弦――“生存者の音楽”がいま、心臓をぶち抜く一撃になる。