ガイウスはアンラの膝の上で、まったく動かなかった。
呼吸だけがわずかに上下している。
魂は逃げたが、肉体は膝から降りられない。
勇者の口元が、ほんの数ミリ“ゆるんだ”。
「………あれ?ガイウス、今ちょっと口元ゆるんだ?」
指先で頬に触れ、嬉しそうに笑った。
「あ〜〜〜、これ……可愛いなぁ……撫でるだけじゃ足りないね……
もうちょっと触りたい……もっと……♡」
邪神、完全に愉悦モードへ移行。
「やばいわドレ様……このままじゃ薄い本出るわよ!!」
モニターを睨みながら、ドレッドノートは静かに立ち上がった。
「よし突入するぞ。奴を蹴る。」
判断が早い、早すぎて怖い。
その時、ポテチをかじりながらディヴァインがぼそりと呟いた。
「止めないほうが面白いのに……」
その一言の“重み”に場の空気が崩れる。
言葉に圧がある、重力がある、世界の法則が一瞬ねじれた。
「それ言うと世界まじで終わるからやめて!!」
「“止めないほうが面白い”の基準が、宇宙規模なんだよ彼は……」
「この人いっつも静かに一番ヤバいこと言うのよね……」
アンラは楽しそうにガイウスの髪に手を滑らせ。
ガイウスは絶望と快楽の間で微妙に震え続けていた。
世界はまだ崩壊していない。
だが、勇者の尊厳は今、風前の灯である。
アンラは、勇者の頬に指を添えた。
「ガイウス〜?ねぇ、もうちょっとこっち向いて?
……可愛いなぁ……ガイウスが可愛いせいだよ?
ちょっとだけだよ……甘えたいんだ……♡」
声は優しすぎる、世界が蕩ける寸前の蜜の温度。
ガイウスはついに限界を迎えた。
「ドレ!!ドレェ!!!はやく蹴れ!!!!!!」
その叫びは勇者の名に恥じぬ、極めて合理的な救援要請だった。
ドレッドノートは、すでに助走に入っていた。
「任せろ!!!」
フォームが、異様に綺麗だった。
軸足が大地に縫い止められたように安定する。
腰の回転は芸術的、鎧が一瞬、光を反射する。
金髪が風圧でなびく、そして表情は真顔。
怒りも憎悪もない。
ただ「世界を守る」という事務処理の顔。
これは神のハイキックではない。
プロ格闘家でも惚れる完成度だった。
何より、威力が意味不明。
蹴りが放たれるその瞬間までに、脳内では演算が完了している。
結果、同格の邪神がサッカーボールになる威力。
アンラが、見事な放物線を描く。
「わぁーい♡」
楽しそうに飛んでいくな。
世界の空気が一瞬歪み、時間がワンフレーム止まる。
そしてなぜかディヴァインも巻き添えで蹴られる。
「ッ……!?すみません!アンラを蹴るはずが」
黒いマントが扇のように広がる。
「成すがままにせよ……球技は嫌いではない。」
巻き添えに納得するな。
「蹴りで邪神飛ばすなよ!!」
「フォームだけならスポーツ漫画の主人公なのよね……」
遠くから声が響く。
「お、超次元サッカーか?ユピテルさン混ざっていい?」
「帰って♡」
即答だった。
ウラヌスは壁にもたれながら、いつもの調子でにやにやと笑っている。
メスガキ特有の、何も考えていないようで実は全部見ている顔。
その笑みの裏で、何か面白いことを思いついた子供のような光が瞳に宿っていた。
「しゃちょーってさ〜、ステンドグラスでも三人描かれてるじゃん?」
その言葉が廊下の空気を軽く叩いた瞬間、何人かの顔色が変わった。
当のアンラ・マンユは、珍しく穏やかな顔をしていた。
怒りでも嘲笑でもなく、どこか柔らかい笑み。まるで子供の遊びに付き合う大人のような顔だ。
「私は“三つの顔を持つ”と昔から有名でねぇ。」
軽く肩をすくめる仕草。
「青年の姿、少女の姿、少年の姿……全部、私の“影”みたいなものだよ。」
それを聞いた瞬間、ウラヌスの顔がぱっと輝いた。
完全にスイッチが入った顔。
「ねぇしゃちょー、できる? 三人同時♡」
「あぁ、できるよ?」
その言葉が落ちた瞬間だった。
「言っちゃったァァァァ!?!?!?」
廊下の床に落ちていたアンラの影が、ゆっくりと長く広がっていく。
まるで液体のように。
その瞬間、三方向からアンラが現れた。
スーツ姿の青年。
ロリゴス姿の少女。
そして煙草を探してポケットを叩く少年。
あまりにも自然な出現だった。
扉も開かない。影も揺れない。
ただそこに“最初からいた”かのような存在感で立っている。
自然すぎて、逆に気味が悪い。
「うおっ……増えんの自然すぎてキモっ!?」
「なんで自然体なんだよコイツらぁぁ!!?」
三つのアンラは、同時に微笑んでいた。
スーツ姿の青年アンラが、軽く手を広げる。
「どれも私。どれも本質から分かれた泡みたいなもの。」
ロリアンラは、ストロー付きのジュースを持ってガイウスに近づく。
「ガイウス〜♡ ジュース飲む?」
ガイウスは全力で首を振った。
「飲まねぇよ!!お前から受け取る液体ってなんかヤバいだろ絶対!!」
その横で、少年アンラがポケットを探る。
「煙草切れてんだよな……誰か火くれ。」
サタヌスが頭を抱える。
「いや方向性バラバラすぎんだろ!?邪神って人格統一してんじゃねぇの!?!?」
スーツアンラは肩をすくめた。
「統一してるよ?」
優しい声で続ける。
「全部、君たちに“見える形”にしてるだけでね。」
そして、ふっと笑った。
「本来の私は――もっと無形だよ?」
ガイウスは即座に叫んだ。
「死ぬわ!!!!!!」
その叫びの直後だった。
ガイウスの首元で、少年アンラがふいに息を吸い込む。
「……ハァ、ハァ……すげぇ……いい匂い。」
「やめろ……ッ……近い……ッ!!」
少年アンラの声は、完全に理性のスイッチが外れた声だった。
「だって……我慢できねぇんだよ。」
背中をがっちり掴む、逃げ道はない。
距離ゼロ、尊厳ゼロ。
「ずっと欲しかった“勇者の匂い”がさ……こんな近くにあんだぜ?」
横から、ロリアンラがストローを吸いながら言った。
「きも♡」
軽やかな悪意だった。
「……おい。今、お前、自分の別形態に罵倒されたぞ。」
「は?別にどうでもよくね?俺は俺だし。」
そしてガイウスの耳元で囁く。
「てか黙ってろよ勇者。動くと余計“来る”」
ロリアンラは楽しそうに頬を押さえた。
「少年形態は脳みそが動物♡」
その後ろで、スーツアンラが優しく微笑む。
「まぁまぁ。みんな違ってみんないいよ。だって全部“私”だからねぇ?」
ガイウスは震える声で叫んだ。
「なに自己肯定の化け物みたいなまとめ方してんだよ!!
統合されてんのかバラバラなのかどっちか決めろ!!」
三体のアンラが、同時に微笑む。
「決める必要はないよ?」
そのすぐ後ろで、少年アンラがほんのわずかに顔を傾けた。
目は半分閉じている、呼吸は熱い。
まるで獣が獲物の匂いを確かめる時のように、静かに息を吸った。
「ガイウス……耳だけ、耳だけでいいから咥え……」
本当に一瞬、世界の動きが止まったかのようだった。
その沈黙を、ロリアンラがぶった切る。
「きも♡」
――二回目である。
少年アンラがゆっくり振り向いた。
「黙れ!」
声と同時に、廊下の空間がビリ、と震える。
人格同士の喧嘩、だがどちらも同一存在、理屈そのものが崩壊している。
ガイウスはもう限界だった、全身で拒絶する。
「ドレッドノートオオオオオ!!!!!」
遠くから、風を裂く音がした。
廊下の向こう側から、空気が一直線に割れる。
「今蹴りに行く!!五秒待てェ!!」
その宣言が頼もしいのかどうか、もはや判断できない。
ガイウスは涙目で叫んだ。
「なんで邪神が“助けに来る側”なんだよ!!!世界を壊す側じゃねぇの!!?」
すぐさま鋭い声が返ってくる。
「“世界壊す側”はアンラだ!!私は違う!!」
廊下の向こうで金髪がなびく気配、鎧がわずかに光を反射した。
「私はガイウスを愛でてるだけだよ?ドレはヤキモチ焼いてるのかな?」
「焼いてねぇよ!!!!!!」
ガイウスは膝から崩れ落ちそうになりながら呟いた。
「もう誰か俺を殺してくれ……」
その瞬間。廊下の角を、ドレッドノートが曲がった。
助走、軸足固定、腰回転。
「待たせたな!!!!」
「全部蹴れぇぇぇぇぇぇ!!!!」
ドレッドノートは一瞬で理解した。
三体同時は非効率、最も危険な個体を優先排除。
狙いは――少年形態。
「え、ちょ――」
その瞬間ドレッドの脚が閃いた。
轟音はなく、空間が一瞬“へこんだ”。
少年アンラの身体が壁に叩きつけられ、そして縦方向に広がった。
まるでインクを投げつけたように。
「ぎゃああああー!?なんで俺だけええええ!」
ドレッドは淡々と言った。
「優先度だ。」
情け容赦なし。
「ひど〜い♡」
「まぁ、合理的判断だね。」
二発目の蹴りで、ロリアンラとスーツアンラがきれいに左右へ飛ぶ。
窓ガラスを突き破り、そのまま外へ。
三階の高さから落下。
ロリアンラがくるくる回転しながら歌う。
「燃えるゴミは月水金〜!」
歌うな。
スーツアンラは空中でポーズを決めていた。
「私は吹っ飛ぶ姿も芸術的イイイ!」
決めるな。
ドレッドは窓から外を覗き込み、冷静に計算する。
「……十五秒だ。」
ガイウスが叫ぶ。
「十五秒で帰ってくるの!?」
そのとき壁に広がった黒いシミから、少年アンラの声がした。
「なぁドレ……俺だけ処理雑くねぇ?」
ドレッドは振り返りもしなかった。
そこへ、不意に空気が焦げる音がした。
それは音というより、空間そのものに雷の爪が引っかかったような裂け目の響きだった。
ユピテルの瞳は愉快そうに細まり、口元には見慣れたあの、軽薄で楽しげで。
それでいてどうしようもなく危険な笑みが浮かんでいた。
ユピテルは数秒だけ黙って眺め、それから楽しげに口角を上げた。
「おいおい、やっぱ超次元サッカーじゃねぇか。」
六将であるはずの男が、第一声で状況をそう総括する時点でだいぶ終わっている。
だがこの場の連中の何人かは、なぜかそれに妙な納得を覚えてしまった。
説明として間違っているのに、核心だけは射抜いているのが最悪だった。
その瞬間、壁のシミから顔を出しかけていた少年アンラの気配が強張った。
ガイウスを嗅ぎ回っていた時のあの湿度を帯びた危険さが、文字通り一瞬で冷えた。
「な、なんだよ……?」
影の中からにじみ出るような声が震える。
「俺はガイウスと……!」
その続きを言わせる気などユピテルにはなかった。
ただ首を鳴らし、肩を回し、軽く脚の向きを確かめる。
やることが完全に“競技前の準備”だった。
「……蹴っていいよな?」
あまりにも自然な確認。許可を求めているようで、まったく求めていない声だった。
少年アンラの悲鳴が廊下に響く。
「やめろおおおお!! 俺はボールじゃねえええええ!!!!」
だが、その悲鳴が最後まで形を保つより早く、少年アンラは逃げた。
本当に逃げた。壁から半ば無理やり自分を引き剥がすようにして。
命の危険を感じた小動物のそれである。
ガイウスは放心した顔のまま、その様子を見送った。
ついさっきまで背中に張りついていた気配が雷から逃げるように消えていく。
その事実だけで、若干の救いと、それ以上の虚無が胸に残る。
ユピテルは楽しそうに口笛を吹いた。音は軽いのに、雷鳴の前触れみたいに耳障りだった。
「はっは~~♡ 待てやガキィィィ!! 人間超次元サッカーの始まりだァ!!」
「来んなバカァァァァ!?!?」
少年アンラの絶叫が伸びる。その後を、落雷みたいな足音が追った。
絵面の解像度だけが無駄に高い、完全なる地獄の運動会だった。
ガイウスはしばらく口を開けたまま、その光景を見送っていた。やがてようやく喉が動いた。
「……もう無理だ」
そのときディヴァインが、静かに戻ってくる。何事もなかったように。
「……なるほど」
全員が振り向く。
「何がだ!!?」
ディヴァインは、ほんの少しだけ笑った。
「“止めたほうが、より面白い”」
最悪の評価更新にドレッドが頭を抱える。
「進化するな!!!」
「ユピテルは“破壊者”だからね。」
その声音には妙な親しみがあった。理解している者が同類を眺める、あの嫌な落ち着き。
「邪神が逃げるくらいが丁度いいんだよ?」
窓の向こうから、悲鳴が聞こえる。
「やめろォォ!! 俺の影をスローインすんなぁぁぁ!!」
「パス通りまーす♡」
ガイウスは自分の人生を振り返るような目で、ひどく遠くを見る。
「俺はいよいよ何と一緒に住んでるんだ……?」