深淵怪文書-四 - 2/4

昼下がりの竹下通りは、妙に静かだった。
通りを満たしていた笑い声と呼び込みの声が、いつのまにか小さくこもったように響く。
クレープ屋の看板はどれも奇妙に歪み、文字がじわじわと崩れている。
「CREPE」と書かれていたはずの看板は、「CЯ∑PΣ」になっていた。
サタヌスはその異変に気づくより先に、別の種類の危機に晒されていた。
ウラヌスが、満面の笑顔でトドメを刺すような声量で言った。

「サタぬって〇ックスしたいって言ってるけど、絶対DTだよねww」
周囲の女子高生が吹き出し、遠くでクレープ屋の兄ちゃんが咳き込む。
クレープを食べながら言う台詞ではない。
だがウラヌスにそんな概念はない。

「うるせぇ!!!」
サタヌスの顔は真っ赤だった。怒鳴るというより、心の防衛反応。
「……多分ガイウスだってそうだぞ!?」
反射的に爆撃対象を増やした。
「ガイウス関係ねぇじゃんwww」
ウラヌスが笑い転げる。声が甲高く跳ね、空気が一瞬だけ澄む。
竹下通りはいつも通りのはずなのに、その“笑い”だけが奇妙に響いていた。

通りの向こう側、ベンチにプルトが座っている。
手元の紙ナプキンでクレープを持ち直し、足を組んで空を見上げていた。
黒髪が風に揺れるたび、どこか既視感のある雰囲気が街に滲む。
その静かな姿はまるでレゼ、だが口を開けばマキマ。
「私? 夜伽で油断させるのはアサシンの常套句ですので……」
言葉がさらりと滑り落ちる。
その語彙の選び方は戦術とR-18を混ぜたような無駄のない冷静さ。
竹下通りという舞台で言うには、あまりに温度が低すぎた。

「夢がねえええ!!ロマンって言葉知ってんのか!!?」
サタヌスが半泣きで叫ぶ。
ウラヌスはそれを見て腹を抱えた。
「“DTの夢”とか、ホラホラもっと喋って♡ スラムの初恋ノートに書いときなよww」
「殺すぞ!!」と怒鳴るサタヌス。
だが、その声もどこか遠くでこだまするように、
竹下通り全体が空洞みたいに響く。
笑い声の中、ウラヌスはふとクレープを見つめた。
チョコがトロリと垂れている。
その粘度が――やけに重い。
「つーかこのチョコクレープ、味しねぇ!!やばい!“無”の味!!」

サタヌスが顔をしかめた。
「……それ食うなよ」
プルトは首を傾げ、クレープをもう一口。
「食べた時点で取り返しはつきませんね」
その声は、竹下通りの空気よりも冷たかった。
ビルの上に掛かる広告が一枚、音もなく剥がれ落ちる。
“SALE”の文字が裏返り、“EƎLAS”になる。

通りはまだ普通の色をしている。
だが、誰かの笑い声が一瞬遅れて聞こえた。
それだけで、世界が少しだけ軋んだ。

崩壊は、まるで「溶けた現実」が再生ボタンを押されたかのように始まった。
ビルの輪郭がゆらりと震え、看板の文字が液状化して垂れ落ちる。
地面が鏡のように波打ち、通行人の足跡だけを残して溶けていく。
太陽がゆっくり反転し、昼空の青が裏返り、白い雲が“下”に流れ落ちる。
音はしない。沈黙そのものが耳の奥で“鳴っている”。

ウラヌスはその異様な光景を見て、満面の笑みを浮かべた。
「うわ〜始まった始まった!!今なら万引きし放題!」
「よせ縁起でもない」
サタヌスの声が低く響く。
彼の言葉は冗談に聞こえない。
街全体が、どこを見ても「もう少しで終わる」予感で満ちていた。

遠くで何かの通信音が混じる。
重低音のノイズと、人の叫び声。
「対象……制圧不能……!」
「すでに溶解、後退を――」
断片的な無線の声だけが空間を漂い、
“誰か”の視線のように彼らの背をなぞった。

クレープ屋の前にたどり着いたとき、
看板はすでに読めない形に歪んでいた。
“CRЯEPΣ”。
まるで神経の断面図のように、文字が生きている。
ショーケースの中には、黒光りするぬいぐるみがずらりと並んでいた。
狂犬の顔をした、可愛すぎる地獄。
光沢のある牙が、ほんのり脈打つように見える。

「見てこれ〜っ♡!破壊神ちゃんっぽいじゃん!!」
ウラヌスが一匹を抱き上げる。
頬ずりしながらターゲットマークをツンツン突き、目を輝かせた。
「ねぇ、“がるる”って顔してるけど、たぶん中身は無邪気なんだよ〜!」
サタヌスは腕を組んで眉をひそめた。
「破壊神!?誰だそれ」
ウラヌスが悪びれもせず笑う。
「アバターの方のガイウス!かわいいじゃん!勇者ちゃんとは別の可愛さある!!」
「かわいいか!? あいつこの前も壁ぶっ壊して“ガイウスごめんなしゃい”って泣いてたぞ!?」
サタヌスの言葉に、どこか兄のような響きが混ざった。

プルトは静かに紅茶を口に運ぶ。
まるでこの街の崩壊など他人事のように、凪いだ瞳のまま。
「まぁ、愛嬌はあります」
声にわずかに温度があった。
表情は変わらない。
だが、口角がほんの少しだけ上がった。
その変化を、サタヌスだけが見逃さなかった。

そのとき、空気が震えた。
ぬいぐるみの瞳が赤く点灯し、ショーケースの中で一匹が動いた。
まるで生き物のように、ゆっくりと頭を上げる。

「ガルル……勇者、だいすき……バキッ☆」
ウラヌスが叫ぶより早く、店のガラスがぱりんと音を立てた。
ぬいぐるみは笑っていた。牙を見せて。
「この子ね、しゃべるんだよ〜。がるるって♡」
ウラヌスが興奮気味に抱きしめる。

プルトはその様子を見ながら、淡々と呟いた。
「……それ、“がるる”で済む音量ではありませんよ」
その瞬間、竹下通り全体が軋むように揺れた。
舗道のタイルが液体のように崩れ、ビルの表面がチョコレート状に溶けて垂れ落ちる。
街灯が一つ、音もなく沈む。

ウラヌスの笑い声が、ゆっくりと歪んでいく。
サタヌスは拳を握ったまま、無意識に呟いた。
「……これ、番組の演出の範囲超えてんだろ」
プルトは空を見上げる。
太陽は完全に裏返っていた。
そして“誰か”が――見ている。

竹下通りの輪郭が、ゆっくりと甘い悲鳴を上げていた。
舗道の隙間から滲み出す液体は、最初ただの泥水のように見えた。
だが、鼻をくすぐる濃厚な匂いが、その正体を否応なく告げる。
チョコレートだ、世界がチョコレートで再構築されている。

ビルの壁がとろけ、看板が滴を垂らしながら文字の骨格を失っていく。
「TAKE」も「CAFE」も、今やただの茶色い川の上を流れる泡。
通り全体がゆるやかに沈むたび、空気は艶めき、溶けた街の輪郭を映す鏡のように光った。
アスファルトの割れ目では、マーブル状の黒と金がぐるぐると渦を巻いている。
その中心から覗く紫の光は、まるで空が裏返ってこちらを覗いているようだった。

ウラヌスはそんな地獄の光景を前にして、相変わらずテンションが一番高い。
「うわ~~!!世界マジで溶けてんじゃんwww」
その“www”の笑い声が、空間の構造を震わせた。
反響した音がねじれて、建物の中に吸い込まれていく。
笑いがこの世界の表面張力を壊す――そんな錯覚を伴う声だった。

サタヌスは、もはや地面の硬さを信じていなかった。
足を取られ、半ば崩れた路上に膝をつき、
チョコに沈むウラヌスの足首を掴んで引き上げながら叫ぶ。

「やべぇ!のぞき穴マジで目出てきてんぞぉ!!」
彼の頭上では、空の裂け目がまるで海のようにうねり、
その奥から巨大な“目”が覗いていた。
瞳は金色の縁取り、中心には混ざり合う黒と紫の渦。
瞬きをするたびに、どろりとした液体が地上へ垂れ落ち、
サタヌスの肩に「熱ッ!!」という悲鳴を落とす。

「こっち見たァ!!!」
彼の絶叫が響くと、空の“目”が確かに動いた。
まぶたがゆっくり閉じ――そして、ウインクした。

「おちゃめだな!!!?」
その直後、遠くで轟音。
爆発音とともに、溶けたパトカーがゆっくりと沈み込む。
マイクのノイズのような音が地面の下から泡立ち、
街がひと呼吸ぶんだけ生きているように見えた。

プルトはその光景のただ中で、ベンチの上に静かに座っていた。
何もかもが溶けていく中で、彼女だけはまるで“描かれた影”のように動かない。
頬にチョコの雫が落ちるが拭かない。
ただ、無駄のない動きで片手を上げる。
「……ぴーす」
声は平坦。表情も変わらない。
だが、その一言で場の温度が少しだけ正常に戻る。
誰もが、狂気の中に理性の“棒読み”を見つけて安堵した。

「対象を制圧しろ!!」
「……って、無理です隊長!! 腰までチョコです!!」
隊員のひとりが足元で泡立つ液体に沈みながら、悲鳴混じりに報告する。
「うちの装備チョコ耐性ねぇんですけど!!!」
別の隊員が銃を構えるが、その銃身から甘い香りが立ち上る。
「おい!銃がフォンダン化してる!!」
指揮官が叫ぶより早く、通信機の向こうからアンラ・マンユの声が響く。

『うん、いい絵だ。実に甘美な絶望だね。もう少し崩してみようか?』
彼らは上を見上げた。
その空には“目”がチョコの涙をこぼしていた。
この街の終わりは、甘く、静かで、残酷だった。
街はもう都市というより、巨大なデザートだった。
竹下通りはゆっくりと傾き、チョコの川が舗道の上をトロォ……と流れていく。
ネオンは半分沈み、看板は甘い泡に包まれて読むこともできない。
ただ、そこに立つ三人だけが、異様に元気だった。

サタヌスは膝をつき、流れてくるチョコの波に顔を近づけた。
そして、ためらいなく指先で一掬い。舌でペロッと味を確かめる。
「オイ!!これまじでチョコだぞ!!」
目が真剣だ。もはや戦場のスカウトの目。
「プル公!おまえ瓶持ってない!? ジャム瓶とかでもいい!」
腰を落とし、真面目にチョコ液を掬おうとしている。
背後では街が沈み続けているというのに、彼の興味は“味”一点。

プルトはというと、無言で見下ろしていた。
その手には紅茶のカップ、だがいつのまにか瓶を取り出している。

「……食べきれませんよ、こんな量」
「誰とシェアする気ですか?」
その口調は淡々としている。だが瓶を差し出す手の動きだけは自然で。
止める気など毛頭ないことを全身で語っていた。
上空で逆さまに浮かぶウラヌスが、腹を抱えて爆笑する。
チョコの雫が髪からポタポタ落ち、彼女の笑い声と一緒に弾けた。

「サタぬも大概じゃんwwww!!クソワロww!」
「次は原宿パフェタワー編いこうぜ!!」
世界が沈んでいるというのに、テンションはフェス。
狂犬ぬいをブンブン振り回しながら、空中でひっくり返る。
下の二人にチョコの飛沫が降り注ぎ、サタヌスが顔をしかめた。
「今は都市を溶かして美味しく頂くのがトレンドなのかぁ!?」
サタヌスは叫び、どこから出したのかスプーンを構えた。
完全に発掘調査員のノリである。

プルトは紅茶を置き、静かに答えた。
「……そんなトレンドは存在しません」
その手にもスプーン。
無表情のまま、地面のチョコを一すくい。
「お前ドンキーコングバナンザのやり過ぎだってぇ!!!」
ウラヌスの絶叫と共にぬいぐるみが空中でぶん回され、「ガルルッ☆」と鳴いた。

奥ではまだABSの特殊部隊が生き残っていた。
半分チョコに沈みながら、懸命に通信を繋いでいる。
「市民が……チョコを……!!!」
「銃が……フォンダン化してます!!」
叫びは泡の中に消え、頭上の看板がひとつ、ゆっくりと落下した。
「SALE」と書かれていた文字が溶け。
そこに浮かび上がる“50% COCOA”の文字。

サタヌスが満足げに笑った。
「高カカオか……そりゃうめぇわ」
ウラヌスが爆笑し、プルトは無言でチョコをもう一口。
街は沈み続けている。
だが彼らの笑い声だけが、溶けた空気を揺らしていた。