なかよしハイツ地獄変
地獄変とは、芥川龍之介という文才あるメンヘラによる傑作である。
だが、これからハイツで起きることは、特に地獄変と関係ない。
――むしろ、もっとタチが悪い。
それは、坊っちゃんが廊下で転んで擦りむいた事件から始まった。
まこと些細な出来事に過ぎない。
だが団地における日常は、些事が即座に修羅場へ変換される地獄変換装置である。
サタヌスが口を開いた。
「バナナってマジで滑るんだよ、気をつけろよ」
彼はスラムの生まれであるため、床に落ちた果実皮を自然と“罠”と認識する。
団地ではただの説教じみた一言になる。
続けてガイウスが吠えた。
「誰だよ!バナナ廊下に捨てたやつは!転んだらどうする!」
彼の憤怒は神罰めいていたが、住民たちは聞き流す。
ここでは“正論”よりも“日常”の方が強いのだ。
坊っちゃんは擦りむいた膝を見せた。
血がにじみ、わずかな痛みがその幼心を震わせる。
そこで現れたのがメルクリウス(本体)であった。
「大丈夫かい?」
彼は淡々と手をかざし、光を注ぐ。
治癒は迅速だが、その声音は保健室の教師のように事務的で冷たい。
だが次の瞬間、別の声がかかった。
「よしよし〜」
アバター版メルクリウス――通称“虚無お兄ちゃん”である。
ねっとりとした微笑を浮かべ、同じ動作で傷を癒す。
しかしその目は観察眼を光らせ、坊っちゃんの仕草一つを逃さぬ。
優しさと不気味さが同居したその姿に、住民たちはざわめいた。
「……あれ?虚無お兄ちゃんの方が人間味あるんじゃ……」
「うそ、本体より兄力高い説ない?」
こうして団地に比較地獄が始まったのである。
アバターガイウスは、まるで子犬のように飛びついた。
「お兄ちゃん!!」
その相手は、虚無の微笑を浮かべるアバターメルクリ――“虚無お兄ちゃん”である。
にこ〜っと笑い、ねっとりと優しい声音で告げた。
「はいはい、よしよし」
包容力は過剰。観察眼の鋭さすら、甘やかな仕草に隠される。
一瞬で団地の空気は“家族の団欒”に変貌した。
その光景を見ていた住民と勇者ズ。
「……あれ?本体メルクリより、アバターの方が人間味あるんじゃ……?」
「いやいや、完全に“お兄ちゃん”だろこれ」
そこから始まるのは、名付けて比較地獄である。
「神官様(本体)より虚無お兄ちゃんの方が優しい説」
「アバターの方が兄力高い説」
「包容力、完敗では?」
本体メルクリは、笑顔のままメガネを押し上げた。
だがその笑みは硬い。
心の声が漏れ出す。
「……僕は、アバターより性格が悪いんだろうね」
ガチの自虐であった。誰も軽口を叩けない。
その沈黙を破ったのは、坊っちゃんの無垢な声であった。
「虚無お兄ちゃんの方が“ほんとのお兄ちゃん”みたい!」
にっこりと笑った本体メルクリ。
しかし、その背に差す影は深く濃く――。
瞬間、団地の空気は凍結した。
廊下は絶対零度であった。
窓には白き霜が走り、住民たちの吐息は白く凍りついた。
その中心に立つのはカリストである。
白と紫の軍服を纏い、青銀の長髪を撫でながら、微笑んでいた。
「快適です♡」
その声は絹糸のように柔らかで、廊下を満たす冷気と混ざり合う。
彼の存在は、団地という凡俗の空間に突如として差し込まれた異国の雪景色であった。
誰もが見とれる。
その佇まいは“女”そのものであった。
だが男だ。
「黙れ雪女(♂)」
サタヌスが即座に吐き捨てた。
ここにおいてすら、団地の日常は揺るがない。
むしろ、比較こそが地獄を肥沃にするのだ。
ある日。
アバターガイウスとアバターメルクリウスは、いつにも増して仲が良かった。
きっかけは単純である。
アバターガイウスが中央エリアでスリップした大型トラックを、持ち前の怪力で押し戻してみせたのだ。
その日-スリップした大型トラックが路地を塞ぎ、住民たちは困惑していた。
「おっさーん!俺戻そうか!?」
アバターガイウスが駆け寄り、無邪気に叫ぶ。
運転手は困惑しながらも首を振る。
「ダメだ、完全に横転しちまってる。ありがてぇがクレーンじゃなきゃ……」
「いいのいいの、俺力あるから!」
そう言うと、アバターガイウスは屈み込み、横倒しになった巨体を見据えた。
その表情からは幼さが消え――声は地の底から響く地声となった。
勇者ガイウスと完全に一致する、あの声。
「ここか……ふんッ!!」
ズシン、と大地を揺らして。
巨腕が軋む鉄塊を押し起こす。
ギギギ、と金属の悲鳴。
やがて、十トンを超えるはずのトラックが、信じられぬほど容易く立ち上がった。
「す、すげぇっ……!あのトラックを……」
通行人は目を剥いた。
「十トンはあるぞ……一人で戻したのか!?」
その場の空気が変わった。
勇者ズは「やるじゃん」と素直に称賛した。
その瞬間、紅蓮の破壊神は「恐怖の象徴」から「アバドンのマスコット」へと変貌したのである。
「中央エリアでトラックを助けたんだって、えらいねぇ」
アバターメルクリ――虚無お兄ちゃんは、ねっとり笑みを浮かべて囁いた。
「ガイウス、頭撫でたいからちょっと屈んでほしいな」
「はーい!」
身長一九〇センチの巨躯が、子犬のように素直にしゃがみ込む。
ちっちゃめなお兄ちゃんが「よしよし」と撫でる図は――
完全に、飼い主と犬であった。
周囲の囁きが止まらない。
「虚無お兄ちゃんの方が優しいな……」
「本体より兄力あるだろ、これ」
本体メルクリは笑顔のままメガネを直した。
だが胸の内では、謎の対抗心が芽生えていた。
「……僕だって、兄らしさを見せてやれる」
そう思ったのが、全ての間違いである。
「ガイウス君、たまには君を労いたい。屈んでくれ」
「はぁ!?やだよ!なんでお前に頭撫でられなきゃなんねぇんだよ!」
\失 敗/
メルクリは眼鏡を押し上げた。
「失敗か……」
笑みは崩さず、だがその奥で悔しさが揺れていた。
こうして団地にまたひとつ、比較地獄の燃料が投下されたのである。
メルクリウスは考えていた。
なぜガイウスに拒まれたのか――理由など、心当たりがありすぎた。
自分の腹黒さは、自分が一番よく知っている。
「ガイウスめ……珍しく何も企んでいなかったのに……」
メルクリは、プチ切れのまま手を伸ばした。
そして――
「おー!撫でられてる感ある!」
サタヌスが髪をわしゃわしゃされながら、子犬のように素直に喜んでいた
「あれ?怒ってるのにちゃんと撫でてる……」
「めっちゃ兄力出てるんだけど?」
結果、団地内で「怒りながらめっちゃ撫でてる神官様」が謎の人気を博すことになった。
「おのれアホ毛め……!」
怒りの眼鏡クイッと共に、メルクリは憤慨を隠さない。
「気持ちいい〜♪」
サタヌスはわしゃわしゃされながら、天上の快楽を味わっていた。
\成 功/
その日以降。
サタヌスは例の“逆ギレマッサージ”を、再び求めるようになった。
「いやサータ……あれはガイウス君のことで苛立った勢いでやったものだ、狙ったものではない」
メルクリウスは真面目に説明した。
「じゃあまたガイウスがやらかしたら出る可能性あるのか?」
サタヌスは食い気味に問う。
「おい、次は俺にもやれよ」
アバターサタヌスまで参戦。
「……なぜだ。撫でられ希望が二人も……」
神官は眼鏡を押し上げ、理解不能のまま困惑した。
だが運命は、狙ったようにアホ毛を導く。
「冷蔵庫が……ヨーグルトで埋まってるね?」
メルクリの視線は冷たい。
「だって!嘘つきヨーグルトが特売だったんだよ!!」
ガイウスは胸を張った。
「恋愛(破局)味がね!これ滅多に置いてないの!」
要らなさMAX。
しかもよりによって「破局味」である。
「……ガイウス君、それは“要らないもの”の典型例だ」
苛立ちの声と共に、眼鏡クイッ。
即ち、八つ当たりガシガシ発動の合図。
\ 要らん爆買い /
「うおおおおお気持ちいい~!!」
尚、サタヌスは喜んだ。
団地内で、奇妙な方程式が生まれた。
「風が吹けば桶屋が儲かる」ならぬ
「ガイウスが幼児ムーヴすると、サタヌスが喜ぶ」
ガイウスがヨーグルト爆買い(※恋愛=破局味)
メルクリ苛立ち、 八つ当たりガシガシ発動
サタヌス大歓喜
恐るべきことに、これは団地住民が何もしなくても発動する。
仕組みなど要らない。
ただ“アホ毛”が自然に揺れただけで、連鎖は始まる。
さらに厄介なのは、メルクリウスの心根である。
アバターメルクリウスが虚無スマイルで「よしよし」しているのを見るたび――
本体は謎の嫉妬を覚え、勝手に逆ギレを始める。
長男、めんどくせぇ。
団地の法則は今日も健在である。
「アホ毛が揺れれば、団地が凍る」
「アバターが撫でれば、本体が拗ねる」
「ガシガシされれば、サタヌスが喜ぶ」