短編集-この世界は奇妙で、おもしろい - 5/5

15歳。

ロストサイド東京支部の受付窓口は、いつもより少しだけ静かだった。
静かというより、書類の紙鳴りだけが妙に耳に残る。
封筒がひとつ、机の上に置かれた。
封を切ったのはメーデンではなく、レイスだった。
彼は内容を読む速度が速い。

「温厚な魔族、だと」
声に温度がない。読み上げているのか、独り言なのか曖昧な高さ。
メーデンは椅子の背にもたれかけた姿勢のまま、眉だけを寄せる。
「……やさしいのに、討伐?」
その時点で、もう矛盾していた。
討伐依頼というものは、だいたい同じ匂いがする。
怖い、危ない、誰かが死んだ、夜に出る、噂が広がる。
人の恐怖は形になりやすい。
だが封筒の中から出てきた文字は「温厚」「やさしい」「確認」という、角のない言葉ばかり。

依頼の発信元は、民間の探索団体名義だった。
ロストサイド黎明期に生まれて、いまも細々と生き残っている「地域観測の口」。
場所は江東区埋立地エリア。「ひかり幼稚園」周辺。
そして、注釈の最後に小さく一行。

討伐個体か確認を求む。

「確認ってのが、いちばん厄介だ」
「討伐していいかどうか、ってことだよね」
「そう」
レイスは口角だけを上げる。笑っている顔の形をしているが、目は笑っていない。
「“やさしい”のに、“討伐枠”かもしれない。そういうのがいちばん揉める」
メーデンは書類を覗き込んだ。乾いた事務的な文字列の中。
「ひかり幼稚園」の四文字だけが、妙に明るい。
言葉の並びだけで、日向の匂いがする。なのに依頼書の端が冷たい。

「……行くしかないか」
「行くしかないな」
それだけで決まった。支部の空気が一瞬だけ変わる。
任務が「始まる」時の薄い緊張。武器を取る前に、呼吸が変わる。

江東の埋立地は、空がやたら広い。建物が高いのに、空が広い。
人間が都市を作っても、空だけは取り返せないとでも言うみたいに。
レイスとメーデンは、町内掲示板の前に立っていた。
回覧板の順番表。手書きの名前。
地域の「ちゃんと生きてる」証拠が、ガラス越しに並んでいる。
その一角に、見慣れない苗字があった。

メーデンが指でなぞる。紙越しの凹凸。ボールペンが押した跡がまだ残っている。
「……いるね」
背後から声。
「何か御用ですか?」
振り返ると、キャップを被った町内会風のおじさん。
いかにも“この街を管理してる人”だ。
日焼けした腕、首から下げた名札、靴のかかとが少し潰れている。
レイスが軽く会釈した。

「この辺の幼稚園に住んでる人、いるよな」
「ああ、いい人ですよ。ゴミ出しのルールもきちんと把握されていますし」
「分別も完璧です」
「回覧板もちゃんと回してくれます」
レイスが眉をわずかに動かす。
「……回覧板、読むのか?」
「そりゃ読みますよ。丁寧にコメントまで書いてくれます」
その言葉は褒め言葉なのに、メーデンの喉の奥に小さな棘みたいに刺さった。
丁寧すぎる人間は、たいていどこかで力を使っている。
使っているのに、それが見えないタイプは、なおさら厄介だ。

「ほら、あの辺、少し荒れがちでしょう?
でもあの人、たまに幼稚園の周り掃除してくれてるんです」
メーデンの視線が動く。
「……掃除?」
「ええ。まめな人だ」
レイスの目が、わずかに細まる。

「いいお母さんですよ。子どもたち、いつもきれいな服着てるし」
「怒鳴ってるところ、見たことないわねぇ」
怒鳴らない、揺らがない、一定。
会話が終わるころ、潮風が吹いた。
レイスがぽつりと言った。

「……完璧だな」
「うん。完璧すぎる」
「普通のお母さんだ」
間。呼吸が一つ。
そして次の言葉が落ちる。軽いのに重い。

「だから、魔族だ」
メーデンは黙る。
“異常”の証言は一つもない。むしろ“理想”。
だからこそ、不気味だ。
レイスが最後に呟く。ほんの少しだけ、笑う。
「人間ってのはな、ムラがあるもんだ」
その言葉は、警告の形をしていた。

報告書は妙に整っていた。紙の端は揃い、文体は均一で、余計な感情語が一切ない。
苦情はゼロ。近隣トラブルも“ない”。失踪者も“いない”。
だが一行だけ、数値のように冷たい注記が刺さっている。
周期的に孤児が入れ替わっている。

「ひかり幼稚園」跡地のフェンスは、錆の筋が垂れているのに、倒れてはいなかった。
外側だけが荒れて、内側だけが整っている気配がある。
レイスはフェンスの隙間から園庭を覗き込み、軽い声で言った。

「もしもしィ〜?」
呼びかけは茶化しているのに、次の瞬間、物音がした。
どこかで砂が擦れたような、遊具が小さく鳴いたような、そんな曖昧な音。
その“曖昧さ”に反応して、レイスの目線が先に動いた。
眼球だけがすっと横へ滑り、次に首がカクンと、別軸で追いつく。
メーデンが小声で言う。

「ねぇレイス、幼稚園に住んでるとはいえ。呼び鈴くらい鳴らしたほうが…」
言いながら、彼の肩をとん、と叩いた。
その瞬間、レイスは“1秒もしない”うちに首をぐるっとこちらへ向けていた。
音に反応した蛇のそれ。首の回る速度が、人間の稼働限界を超えていた。

「怖い!!人間のフリして!?」
「俺は自然体でいるだけだが?」
自然体。そう言い切れる神経が、なおさら異物だった。
メーデンは息を整えながら、フェンス越しの園庭を見た。
昼の光が全部を照らしているのに、笑い声だけが足りない。
色の抜けた遊具と、伸びかけの草と、乾いた砂。
中央には、てんとう虫の遊具が半分埋もれたまま、笑っていた。

家は整っている。台所は清潔。シンクに水垢がない。
スポンジの角が立っている。洗濯物は干されている。
白いシャツ、小さな靴下、タオルが色別に揃えられて、風に揺れながら乾いていく。
乾き方まで計算されているみたいに、間隔が等しい。

子どもは元気で、よく笑う。
笑い声は高く、素直で、家の中に反響して跳ね返る。
走る足音。小さな衝突。ふっと息が切れる音。ど
報告書の「苦情ゼロ」が、異様に重い。
子どもがいて、生活があって、音があって、誰も何も言わない。
そんなことは普通起きない。
普通なら、誰かが愚痴る。普通なら、誰かが怒鳴る。普通なら、どこかが崩れる。

ママは優しい声で話していた、声の高さも、柔らかさも、距離も、完璧だった。
子どもの目の高さに合わせてしゃがみ、相手の反応を待つ。
相手が安心した瞬間だけ、微笑む。
完璧すぎる。

「懐かしいな」
「知ってるの?」
「ああ、擬態型だ」
風が止まる。
さっきまで洗濯物を揺らしていた潮風が、ぴたりと途切れたように感じる。
雲一つない青空の下で、音だけが一瞬抜け落ちる。

「大災害の頃に、魔界から送り込まれてた連中だよ」
「人間社会に溶け込んで、情報を吸い上げるための“人間のフリがうまいやつら”」
「フリ、って……」
「見た目も、生活も、社会性も全部コピーする」
「ゴミ出しも回覧板も、ああいうの全部な」
間が落ちる。子どもの笑い声だけが、その間を埋める。
昼の光が眩しく、窓ガラスが白く光る。全部が明るいのに、話だけが暗い。

「だがな。人間はさ、理由があって優しくするだろ」
「……うん」
「でもあいつらは違う」
一拍。言葉を選ぶ間ではない。確認する間だ。

「優しさを“再現してるだけ”だ」
その瞬間、メーデンの視界の端で、ママが子どもの髪を撫でる。
手のひらが滑らかに動き、指が絡まらない。
笑顔が浮かび、目尻が柔らかく落ちる。完璧な母親の動作。完璧な、再現。

そしてメーデンは理解する。
報告書が整っているのは、生活が整っているからではない。
整っている“ように”保たれているからだ。
孤児が入れ替わっている。周期的に。
その周期の終点が、どこに繋がっているのか。青空は何も答えない。答えないまま、ただ明るい。

「人間界と魔界の出入りが普通になって、任務も終わった」
レイスはフェンスに肘を預けたまま、淡々と続ける。
「で、今は好き勝手やってる」
メーデンは視線を園舎の窓へやった。洗濯物が揺れている。子どもの靴が揃っている。
「好き勝手って……あれが?」
レイスは肩をすくめる。
「“あれ”が好きなんだろ」

ほんの一瞬、口元が歪む。
「はとバスラーメンのおやじも擬態型だぞ」
メーデンが止まる。完全に思考が止まる。
「……は?」
「うまいぞ」
あまりにも普通の評価に、メーデンは眉を寄せる。

「レイスそれ、ラーメンうまいからで贔屓してない?」
「悪い?」
命の話をしているのに、昼の風みたいに軽い。
その軽さが、逆に浮いた。
その時、二人の気配に気づいたのか、園舎の玄関が開く。
影が一つ、ゆっくりと外へ伸びる。
魔族。通称「ママ」。

「おや?どうしましたか。私とぼうやに何か」

声は柔らかい。抑揚も、距離感も、ちょうどいい。
子どもの肩に手を置く角度も自然。抱き寄せる力も適切。
レイスは一歩だけ前に出た。

「いや、貴女とお子様のことで少し」
その言い方は、職務質問する警官のそれに近い。
逆らえない圧を、やわらかい言葉で包んでいる。
「そうですか」
返答は驚くほど、ふつうだった。
子どもの友達のこと、最近のお勉強のこと、この幼稚園で過ごした思い出。
公園のブランコが怖かったこと、夜に少しだけ咳き込むこと。
全部が、母親の会話だ。

アルバムの写真は十四歳までしかない。
十五の誕生日が、ない。
メーデンの指先が冷える。
そのとき、ママがふと首を傾げる。
「粉ミルクって余るんですけど、あなたって誰に飲ませています?」
話題の移動が滑らかに「卒乳」に切り替わっていた。
レイスは一瞬だけ瞬きをしてから言う。

「オレ粉ミルクじゃなかったからわかんねぇ」
「えっ、あなたシングルファザーでは?ではミルクはどこから?」
「母乳って血と同成分だからって血飲ませてたってオヤジが」
ママは即答する。
「それはいいかもしれない」
「よくない」
「よくない!!」
ママは微笑む、怒らない、否定しない。
ただ、観察している。

「子どもは“ママ”と呼ぶと安心します」
「呼ばせてんのか」
「はい。反応が良いので」
レイスはしばらく黙り、ほんの少し視線が子どもに落ちる。

「俺は呼ばせなかった」
「なぜです?」
「呼ばれると、面倒になる」
「?」
理解できない顔、“意味”を探す目だった。

「あなたはその子を愛していますか?」
空気が止まる。
メーデンの心拍がわずかに跳ねる。
レイスは答えない、ほんの一瞬。目が伏せられる。
それは迷いではなく、選択だ。

「死なせたくねぇとは思う」
「それは愛では?」
「違う。俺の都合だ」
「愛も都合の一種では?」
メーデンが叫ぶ。
「会話が怖い!!」
空は青い、雲は流れる。
だが家の中だけ、温度が一定だった。
揺らぎが、ない。

午後の街路が、唐突に脳裏へ差し込む。
潮の匂いとは違う、乾いた埃とコンクリートの温度。
人の気配は薄く、ビル風が紙片を転がしていく。

ふっと脳裏をよぎったのは人魔動乱直後。
魔界と人間界が切り離され、世界が最も荒れていた時代。通称「灰の時代」
アンフィスは無言で歩き、隣で少年レイスが半歩遅れてついていく。
兵の歩き方だ、靴音は規則正しい。
速くも遅くもなく、ただ“いつも通り”。
その「いつも通り」が、ひどく脆いものだと少年は知っていた。
角を曲がる直前、背後の通りから、低い声がこぼれる。

「アンフィス将軍と思われる男性が、この地方で確認されたらしい」
わずかに、空気が止まる。世界が一瞬だけ息を止める。
続く声は祈りに似ているのに、欲の匂いがする。
「くまなく探せ。あの御方さえ戻ってくだされば。我らはまた戦える」
言葉は遠い。だが、確かにここへ向かっている。風に乗って、角の内側に滑り込んでくる。
レイスが振り返ろうとする。その瞬間、袖が引かれる。
ほんの少しだけ、強く。

アンフィスは歩幅も速度も変えない。
首も向けず前だけを見る、だが手だけが、子どもの腕を“逃がさない強さ”で引く。
恐怖を押しつぶす力ではなく、恐怖を抱えたまま走らせる力。
「……」
レイスは何も聞かない。聞けば、答えが出ると分かるから。
聞けば、「このままではいられない」が言葉になってしまう。言葉になった瞬間、現実になる。
人波のない通りを、二人は滑るように抜ける。
足音は、ひとつ分しか残らない。
曲がり角の向こうへ消える直前、アンフィスの指先が、ほんの一瞬だけ強くなる。

それだけで十分だった。
このままではいられない、と。
もう長くはない、と。

言葉にしない答えが、伝わる。
街は何事もなかったように静かで、二人だけが、その静けさから少し外れていた。

午後の街路が、唐突に脳裏へ差し込む。
潮の匂いとは違う、乾いた埃とコンクリートの温度。
人の気配は薄く、ビル風が紙片を転がしていく。

ふっと脳裏をよぎったのは人魔動乱直後。
魔界と人間界が切り離され、世界が最も荒れていた時代。通称「灰の時代」
アンフィスは無言で歩き、隣で少年レイスが半歩遅れてついていく。
兵の歩き方だ、靴音は規則正しい。
速くも遅くもなく、ただ“いつも通り”。
その「いつも通り」が、ひどく脆いものだと少年は知っていた。
角を曲がる直前、背後の通りから、低い声がこぼれる。

「アンフィス将軍と思われる男性が、この地方で確認されたらしい」
わずかに、空気が止まる。世界が一瞬だけ息を止める。
続く声は祈りに似ているのに、欲の匂いがする。
「くまなく探せ。あの御方さえ戻ってくだされば。我らはまた戦える」
言葉は遠い。だが、確かにここへ向かっている。風に乗って、角の内側に滑り込んでくる。
レイスが振り返ろうとする。その瞬間、袖が引かれる。
ほんの少しだけ、強く。

アンフィスは歩幅も速度も変えない。
首も向けず前だけを見る、だが手だけが、子どもの腕を“逃がさない強さ”で引く。
恐怖を押しつぶす力ではなく、恐怖を抱えたまま走らせる力。
「……」
レイスは何も聞かない。聞けば、答えが出ると分かるから。
聞けば、「このままではいられない」が言葉になってしまう。言葉になった瞬間、現実になる。
人波のない通りを、二人は滑るように抜ける。
足音は、ひとつ分しか残らない。
曲がり角の向こうへ消える直前、アンフィスの指先が、ほんの一瞬だけ強くなる。

それだけで十分だった。
このままではいられない、と。
もう長くはない、と。

言葉にしない答えが、伝わる。
街は何事もなかったように静かで、二人だけが、その静けさから少し外れていた。

――軋んだ鉄柵の向こう、草の伸びきった園庭。
色あせた遊具が、風に揺れてわずかに鳴る。
かつて「遊び場」だった場所は、今やただの空白だ。
子どもは、二人から一歩だけ距離を取ったまま、首を振る。

「帰ってください」
声は強くない。だが、決めている声だった。
誰かに守られている子どもの拒絶は、刃物みたいに鋭い。
メーデンが一歩踏み出す。

「……ねえ、本当にいいの?あの人、“普通じゃない”可能性があるの」
子どもはすぐに言い返す。
「普通じゃないのは、そっちでしょ」
その返しは正しい、ここに立つ二人のほうが異物だ。
武器の匂いを隠していても、目が違う。見ているものが違う。

「ママは優しいよ。ちゃんとご飯くれるし、夜も一緒にいてくれるし」
「ぼく、ここで困ったことなんて一回もない」
優しい。ご飯。夜。
全部が生活の言葉で、だからこそ反論しづらい。
メーデンの喉が一瞬だけ詰まる。正しさの刃は抜けない。
レイスは軽く息を吐いて、頭を掻く。

「“困ってない”ってのはな……困る準備が整ってるだけの時もある」
「意味わかんない」
「だろうな」
レイスはあっさり引いた、無理やり連れていくことはできる。
できるが、それは“ここで築かれている何か”を壊す行為でもある。
壊した瞬間、子どもの中の「ママ」が傷になる。
傷になった「ママ」は、たぶん一生残る。
子どもは最後に、はっきりと言う。

「ぼくは、ママといる」
その一言で、線が引かれる。
アンフィスが袖を引いた時と、同じ線だ。
言葉ではない答えが、身体に伝わる線。越えたら戻れない線。
――二人は、それ以上踏み込まなかった。

しばらくの沈黙のあと、メーデンがぽつりと呟く。
「……行っちゃったね」
「ああ」
レイスは視線を逸らし、園庭の奥を見る。
小さなブランコ。片方だけ、鎖が短い。
誰かの成長に合わせて、調整された痕跡。
それが“生活”の痕跡に見えるのが、いちばん嫌だった。

「ねえレイス。あの子たち、何人いるんだろ」
「さあな」
レイスは短く答え、続ける。
「だが、“減った形跡がない”」
視線は、さっき子どもが帰っていった方向へ向いている。
レイスは、低く言う。

「“人間っぽく安定してる何か”ほど、信用ならねえもんはない」
その言葉の中に、袖を引かれた午後の感触が混じっている。
言葉にしない答えが、また一つ増えた。
このままではいられない、もう長くはない。

「……俺の親父さ」
ぽつりと落ちた声は、いつもより少しだけ乾いていた。
午後の光はまだ強く、園庭の砂は白く照り返す。なのに、その声だけが影を持っていた。
「シングルファザーの中でも、だいぶヤバいほう」
煙を吐く。まっすぐ上がらず、横に流れる。
風はある。だが、どこかで引っかかっているみたいに、煙だけが素直に上に行かない。
メーデンは隣に座って、少し首をかしげる。

「ヤバいって……どっちの意味?」
「全部だよ」
即答だった。
「叩いたり怒ったりする人じゃないんだ。そういう“わかりやすいライン”は踏まない」
間を置く。
その“わかりやすいライン”の外側に、どれだけのものがあるのか、言葉にしない。

「ただ、静かにやべぇ」
メーデンは少し考えてから、遠慮がちに言う。
「それって……サイコパスってやつなの……?」
レイスは煙草をくわえたまま、少しだけ笑った。
でも目は笑っていない。

「サイコパスより、もう一段ズレてる」
灰を落とす。床に当たって、細かく砕ける。
その崩れ方が、やけに均一だった。
「人間は恒温動物だろ」
「う、うん……?」
「アイツ、そこ信用してない」
メーデンが黙る。理解が追いついていない顔。
レイスは続ける。

「寒いと死ぬかもしれない、じゃなくて“体温を上げればいい”で済ませるタイプ」
「え、それは……普通じゃないの……?」
「方法の話だよ」
少しだけ視線を落とす。
「燃やすんだ」
短く言った、風が一瞬止んだ気がした。

「布でも、木でも、最悪なんでも」
メーデンの肩がぴくっと動く。
レイスは肩をすくめる。
「現代にいたら確実に児相呼ばれてる」
「呼ぶよ……!!私が通報するよ……!!」
「だろ」
軽く笑う。今度はほんの少しだけ、ちゃんと笑った。

「でもまぁ、そのおかげで死ななかった」
煙を吐く。今度はゆっくり、天井に溶ける。
「正しいかどうかじゃなくて、“生きるかどうか”しか見てない人だったな」
メーデンはしばらく黙ってから、小さく言う。
「……それ、優しいの……?」
レイスは答えない。
答える気も、ないみたいだった。
ただ、煙草の火だけが、静かに赤く残っている。

――そのとき幼稚園の奥から、音がした。
軽い足音、袋の擦れる音、扉が開く。
ママは両手にケーキ箱を抱えていた。
白い箱、赤いリボン、この場所に似合いすぎるほど普通。
メーデンが、思わず呟く。

「おたんじょうび……?」
箱の中にはイチゴのホールケーキ。
ろうそくの数は、十五本。
ママが、優しい声で言う。

「おめでとう」
その声は、これまでと同じ。
温度も、間も、柔らかさも、完璧。
子どもは泣いている、嬉しさと安心で。
「ママ、ずっと一緒だよね?」
震える声に、ママは笑う。

「もちろんよ」
その目は一瞬も揺れない、揺れないまま、続ける。
「愛しているわ」
言葉は、正しい形をしている。
正しい順番で、正しい音で並んでいる。
ただ、その中身だけが、どこにも繋がっていない。
「ルアーとして」
空気の形を変えた、その次の瞬間だった。
理解より先に身体が反応する。
メーデンは床を蹴り、レイスは煙草を指先で弾き捨てる。
まだ間に合う速度だった、そう見えるように、世界のほうが一瞬だけ遅くなった。
だが、間に合わない。

ママの手はすでに子どもの首筋に触れていた。
慰める時と同じ手つき。熱を確かめる時と同じ角度。頬を撫でる時と同じ優しさ。
子どもの肩がびくりと震え、次の瞬間には力が抜けた。
崩れ落ちそうになる身体を、ママはいつも通り抱きとめる。
転ばせないように。痛がらせないように。愛撫の延長みたいな動作で、そのまま喉元へ口を寄せる。

それは獣の一撃ではなかった。むしろ、キスの距離で行われる、あまりにも静かな捕食だった。
喰う。吸う。奪う。子どもの指先が、弱くママの服をつかむ。
最後まで拒絶ではない、助けを求める形ですらない、信じて触れる手だ。

「ママ……」
呼べば返ってくると信じている呼び方。
幼い頃から何度も繰り返してきた、安心の合図。
ママは顔を上げる。唇の端についた赤を、指でぬぐうことすらしない。
表情は整ったままだ。呼吸も乱れていない。
「有効期限を越えたルアーは、使えないわ」
そこに感情はなかった。罪悪感も、言い訳も、後悔もない。
機能停止した装置を廃棄した、ただそれだけの声音。
ママは最初から一度も裏切っていない。
裏切りという概念の外側で、予定通りの工程を実行しただけだ。
その静止を、レイスの声が裂く。

「あぁ~俺も昔やったわ」
メーデンの脚が反射で飛んだ。全力の蹴りがレイスの脇腹に入る。
「一緒にしないで!!」
鈍い音。レイスは半歩よろけ、すぐに体勢を戻す。

「でもこいつ、手入れが丁寧すぎる。趣味悪ぃな」
子どもの身体が、ママの腕からゆっくり滑り落ちる。
床に落ちる前にメーデンが駆け寄って抱き起こす。
軽い。あまりにも軽い。まだ温かいのに、戻らない熱だとわかる軽さ。
処理を見たあとも、レイスの声だけは妙に落ち着いていた。

「……あれは“裏切り”じゃない」
メーデンは泣きそうな顔で振り返る。
「じゃあ、何なの」
レイスはママから目を離さずに答える。
「予定通りだ」

ママは最後まで取り乱さない。逃げようとも、逆上しようとも、泣き崩れようともしない。
子どもの亡骸と、立ち塞がる二人と、開いたケーキ箱と、十五本の火。
その全部を視界に入れたまま、ただ次の手順へ移るように言う。
「次の素材を探すだけよ」
その言葉に、蔑みがほんの少しだけ混じる。
人間社会でうまくやる術を知った者の、冷たい優越だ。
レイスが一歩、前に出るとママの視線がようやくわずかに細くなる。

「ハンターさん、ここは住宅街ですよ?」
「武器なんか振り回したら、通報されてしまいます」
その口調は、近所の非常識をたしなめる主婦のそれに似ていた。
人間社会のルールを盾にできると信じている声。
自分がそのルールをもっとも上手に模倣してきたからこその声音。
だがレイスは、必要ないと言うように首を振る。

「知っているよ」
「だから、こうする」
次の瞬間、動いていた。
全身がばねになる。床を蹴った音より先に距離が消える。
腕が伸びるのではなく、身体そのものが巻きつく。
足が低く潜り、重心を奪い、腕が肩と首を絡め取る。
大蛇が獲物の骨格を読むみたいに、関節の逃げる向きを一瞬で塞ぐ。
生き物としての構造そのものを、手で終わらせる動き。
ママの目が見開く。

「あっ……!?」
悲鳴にすらならない。遅すぎる。首、肩、腕、胴。その連結が一息で狂う。
床に叩きつけられる音は軽い。あまりにも軽い。
人間らしい悲鳴も、魔族らしい咆哮もないまま、「ママ」は瞬殺された。

メーデンが膝をつき、子どもの亡骸を抱えたまま泣きそうになる。
涙が出るには、まだ現実が鋭すぎた。
胸の奥に刺さったまま、形を変えない。
レイスは倒れたママを一瞥し、それから子どもの亡骸を見下ろす。
声は低い。冷えている。

「……餌は、最後まで餌のままか」
救いはない。
子どもは愛を信じたまま死んだ。
ママは愛を理解しないまま死んだ。

ママが動かなくなってからも、部屋の中にはしばらく“母親のいる家”の気配だけが残っていた。
洗剤の匂い、切り分けられていないケーキ、十五本の火、きれいに畳まれた布巾。
そこにあった生活の手触りは、本物と区別がつかないほど正確で、だからこそ余計に始末が悪かった。

メーデンは子どもの亡骸を抱えたまま、しばらく動けなかった。
腕の中の重さはもう返事をしない。それなのに、さっきまでの体温だけがまだ少し残っていた。
人はそこに期待を持ってしまう。まだ何かあるんじゃないかと、遅すぎる願いを抱いてしまう。
「……あの子、幸せだったのかな」
質問というより、零れた欠片だった。
誰かに答えてほしいというより、自分の中で持ちきれなくなったものが、喉からこぼれただけの声。

「“そう思って死んだなら”それでいい」
メーデンは顔を上げる。
反論しようとして、できない。
その言葉は冷たいようでいて、これ以上どこにも行けない場所に、せめて薄い布をかけるみたいな言い方だった。
救済ではない。慰めでもない。
ただ、もう手が届かないところへ、無理に意味を取り立てに行かないための線引きだ。

人外が人間の赤ちゃんを拾う。
何度も、何度も物語の中で書かれてきた話だ。
捨てられた幼子を、鬼が育てる。竜が守る。魔王が拾う。
世界の外にいるはずのものが、小さな命にだけは優しい顔を見せる。
物語の中の彼らは、時に人間以上の愛を見せる。
血のつながりを超えた情。種を超えた慈しみ。

そういうものは、昔から好まれてきた。人間は、自分たちの外側に、より純度の高い愛を見たがる。
しかし、今、目の前で起きたことは、その限りではない。
愛はあった。
有効期限があっただけ。

メーデンは目を伏せる。
「……それでも、嫌だよ」
「だろうな」
レイスの返事は短い。否定も肯定もない。
嫌だという感情が正しいかどうかすら、いまは評価しない。
ただそこにあるものとして受け取る。そういう返し方だった。

彼は床に落ちたローソクを一本拾い、火を指先で揉み消した。
祝福の数として並べられたそれらは、最初から処理の段取りでもあった。
誕生日は区切りで、区切りは終了の合図。
人間なら思い出になるはずの日付が、ここでは廃棄ラベルになっていた。

「……帰るか」
レイスがそう言う声は、驚くほどいつも通りだった。
メーデンはまだ亡骸を離せずにいたが、やがてそっと床へ横たえ、上から布をかけた。
せめてもの遅すぎる礼儀。遅すぎる、けれどゼロじゃない礼儀。

「はとバスラーメン食べて帰ろうか、味玉がうまいぞ」
メーデンがぴたりと足を止める。
「やっぱ卵がうまいから贔屓してるでしょ!!?」
「悪い?」
即答だった。あまりにも躊躇がない。
メーデンはさっきまで泣きそうだった顔のまま、半分だけ呆れ、半分だけ怒る。

「さっきまであんな話してたのに!? いや、待って、擬態型のラーメン屋をここで推す!? 情緒どうなってるの!?」
「情緒は後でいい。味玉は今うまい」
「最悪の優先順位だよ!!」
それでも歩調は、いつのまにか揃っていた。
風が吹く。潮の匂いが混じる。コンビニののぼりがばたつく。
遠くでカラスが鳴く。生活の音が戻ってくる。
さっきの部屋だけが世界から切り離されていたみたいに、街はいつもの午後へ戻っていく。

そして蛇は本能的に、卵が好き。
その事実に、崇高な意味はたぶんない。
けれど、生き物のどうしようもない偏りは、時々ほんの少しだけ救いに似る。
午後は終わらない。
青空の下、ひどく短い話だけが、静かに喉へ刺さったまま残った。