ガイウスは人混みをかき分け、必死でサタヌスの小さな背中を追った。
けれど、なぜか息ひとつ乱れない。
荷物の重さも気にならず、視界はクリア。
――本人も気づいていないが、既に「聖痕」による微かな超人化が始まりつつあった。
「あのヤロォ……!あのおっさん、はした金しか寄越さなかったが、俺の全財産だぞぉ!!」
叫びながら駆け抜ける大通り、スラムの入口付近-壁には派手なスプレーで。
“Même le rat ici a du caractère.”(ここのネズミですら根性がある)とフランス語の落書きが残る。
だが今のガイウスに読めるわけもなく。
精々「ここから先、ノワール区」と注意喚起されているくらいにしか思えなかった。
その先、壁際からは複雑に絡み合った配管パイプがうねり出し。
石畳は汚れと泥で色を変え始めている。
サタヌスは、そのパイプを器用に足場にして、もう路地の奥へ消えかかっていた。
「おい、待てっつってんだろ……!」
初めて踏み込む“街の裏側”。
勇者ガイウスのアルルカン洗礼劇、第二幕がここから始まる。
ノワール区――アルルカン最大のスラム。
その空気は、大通りの賑わいとはまるで別世界だった。
建物という建物が歪に積み上げられ。
複雑に絡み合う無数の配管パイプが、壁や屋根を這いずり回る。
錆びた鉄と油の匂いが鼻をつき。
どこからともなく、ゴウンゴウンと鈍い水音や蒸気の吹き出す音が響く。
屋根と屋根の間には、細い橋やパイプの渡しが何層にも重なり。
少年たちが忍者のように、ひょいひょいと身軽に走り抜けていく。
サタヌスは人目をかいくぐり、影から影へとすり抜けていく。
窓の明かりがぽつぽつと灯り。
蒼い光を放つ配管の間からは、下層へと続く無数の通路が覗いていた。
どこまでも続く“迷宮”のような路地裏。
屋根伝いに追うガイウスの後ろには、都会のネオンも。
観覧車の光も、遥か遠くにかすんで見えていた。
この街では、“勇者”であることも、“金持ち”であることも、誰の目にも価値がない。
ただ生き抜くための根性と、自分だけの道を見つけるための知恵と。
そんなリアルな“生”が、配管と蒸気の闇の中で蠢いていた。
ガイウスは屋根伝いに一気に駆け抜け、勢いのまま路地へ飛び降りる。
その瞬間、すぐ目の前。
壁一面に、筆記体とスプレーの二重でこう書かれていた。
Fous-moi la paix, sale môme!
――うるせえ、ガキ!
殴り書きの文字はどこか生々しく。
この場所でかつて大喧嘩した誰かの名残のようだった。
その壁を背にして、サタヌスがうんざり顔で立ちふさがる。
「しつけぇなぁ、あのムダにデケェ野郎……」
「うすっぺらい財布ひとつで追いかけてくんなよ!あぁもう、いいや。殴り合いだ殴り合い!!」
ガイウスは、全身にじんわりと熱を感じながら。
自分でも驚くほど、息切れひとつしていなかった。
(こいつ、速い……。というか、俺もこんな動けたっけ?)
スラムの屋根と路地裏を舞台に、“勇者”と“スラム番長”の超人鬼ごっこが火花を散らす。
そして鬼ごっこは、サタヌス側が折れる形で終わりを告げた。
もう逃げる様子のないサタヌスは、財布を手に佇んでいる。
ガイウスは必死に息を整え、顔を真っ赤にして叫んだ。
「あのなっ……俺は、勇者なんだぞ……!」
「まだ名乗り出して3日だけど、冒険者とは違うんだぞっ……!」
サタヌスはニヤリと笑いながら、ガイウスの目の前で“奪った財布”を堂々と裏返す。
中から出てきたのは、わずか数枚の銀色のコイン。
「へェ、“勇者”ね」
コインをつまみ上げて、シャリン、と軽く弾く。
「……1000ソル」
「よく言うもんな、勇者は派手に担ぎ上げられるくせに、はした金しか支給されねぇってさ」
「アルキード王都の勇者様でもこれかよ? “救世主”のくせに、財布は貧民と大差ねぇじゃん」
サタヌスの煽りは、まるでナイフのようにガイウスのプライドを斬り裂いた。
「返せ、それは俺の全財産だ……!」
サタヌスは首を傾げて、さらに追い打ちをかける。
「どうする? 殴り合いで勝ったら、返してやるよ――勇者様ぁ」
スラムの闇に、2人の火花が散る!
路地裏の暗がり、ガイウスとサタヌスがにらみ合うやいなや。
「返せっ、俺の財布!!」
「やれるもんならやってみろ、勇者サン!」
組み合う2人、いきなり本気の裏路地プロレス勃発!!
スラム裏路地の奥はいつの間にか、物陰や屋根の上にスラムキッズたちが集まっていた。
皆、目を輝かせて新顔の勇者と“土曜サル兄貴”のバトルを見守っている。
(あれ??俺、聖痕持って超人になったんだよな?
なのに何でスラムのガキと路地裏でプロレスしてんの??)
ガイウスの心は疑問だらけだったが、サタヌスはお構いなしだ。
「デケェ図体してて技が決めやすいなあああ!!」
サタヌスは素早く間合いを詰め。
曲げた片腕を勢いよく突き出す-お手本のようなエルボー・バットだ。
ガイウスの胸にドンッとヒットし、思わず体がのけぞる。
「うわああああ!?」
屋根の上からスラムキッズが大歓声。
「キター!!兄貴の十八番、エルボー・バットぉ!!」
「あれ、マジで痛いんだよね……。この前貴族の兄ちゃん骨折してたし」
「いや、でもあの赤毛の兄ちゃん普通に耐えてる?新記録か?」
「もっといけー!土曜サル!!」
「がんばれワンコ兄貴ー!!財布取り返せ!!」
勇者ガイウスvs番長サタヌス。
アルルカン裏路地名物、プロレス鬼ごっこは今まさにヒートアップ!
ガイウスはエルボーをまともに食らいながらも、ふと違和感に気づく。
(え??何でこのガキ、勇者の俺と互角以上に殴り合えてるんだ?
……いや、俺も俺で何でスラムでガチプロレスしてんの??)
混乱しながら、ふとポケットの中のコンパスを握りしめる。
その針は――まるで「これが次の勇者だ」と言うように。
目の前で暴れているサタヌスをビシィッと指し示していた。
「……うそだろおおおおおおおお!!!?」
ガイウスが絶叫した瞬間、サタヌスが再び笑って煽る。
「うるせぇ!!叫ぶ暇あるなら反撃のひとつしてみろよ、サンドバッグ野郎!!」
スラムキッズたちの実況はさらにヒートアップ。
「なになに!?勇者、次の勇者指してるの!?まさか兄貴が……?」
「それはそれで面白い!もっとやれ!!」
運命のコンパスが指した“新たな仲間”は。
まさかのスラム最強番長(財布スリ)だったのである。
サタヌスはコンパスの存在に気付き、ニヤリと顔を歪める。
「そいつ、なんだ?財布よりたっけぇのか?」
ガイウスは乱れた息を必死に抑え、拳を震わせながら叫ぶ。
「アストラ・コンパスだ……リアナってガキが言ってた」
「勇者達にずっと支援して来て、もうこれしか渡せねぇって――アルキードの国宝なんだよ!!」
「へェ、そりゃ高いな。一生遊んで暮らせるな、よし盗るか」
サタヌスの悪ガキスマイルが更に増す。
その瞬間。ガイウスの内側で、なにかが「プツン」と弾けた。
「これだけはっ……渡さねぇええええ!!」
叫ぶと同時に、身体が無意識に跳ね上がる。
そして-完璧なシャイニングウィザードを決めていた。
片膝立ちのサタヌスの膝を踏み台にして、一直線に膝蹴りを頭部に叩き込んだ!
「なっ……あぁ!?」
衝撃でサタヌスが弾かれ、路地裏のゴミ山に激突する。
スラムキッズたちは屋根の上から大歓声。
「うおおお!デケェから迫力がダンチだな!」
「今の何!?新技!?ワンコ兄貴、やるじゃん!!」
「兄貴にあんなのキメる奴、初めて見たぞ!」
勇者ガイウス、ついに“覚醒”の片鱗を見せる!!
スラムの夜に新たな伝説が刻まれようとしていた――!
そのとき、スラムの屋根の上。
黒く艶やかなカラスが一羽、静かに二人の様子を観察していた。
目には魔法の光が宿り、その口元からは妙に人間臭い声が漏れる。
「……勇者ガイウス、魔力補強&聖剣なしで“シャイニングウィザード”を一発で決めてたっす」
「しかも無意識。これはまた大物が来たっすね……記録、記録」
カラスは小さなメモリースクロールに“勇者の異常な身体能力”をカタカタと書き付ける。
「しかも今、互角以上に殴り合ってる“サタヌス”という少年も、勇者の可能性大」
「うーん、下界も面白くなってきたっす。これは本部に報告戻りましょう」
カラスの翼がバサリと音を立てる。
誰にも気付かれず、夜空へと消えていく。
その記録は、やがて魔王軍上層部へと届けられ。
後の“大騒動”の火種となるのであった。
サタヌスはガイウスの予想外の反撃――あのシャイニングウィザードをまともに食らい。
ゴミ山に転がりながら、苦しそうに呻いた。
「くっそぉ……一撃が重てぇっ、戦車かよ……!」
ガイウスは、息を整えながら思わず問いかける。
「……お前、悪いことしたって自覚あるのか!?」
サタヌスは床に手をつきながら、悔しそうに顔をしかめる。
「殴ったことは……な」
割とすぐに立ち上がるあたり、さすがスラム育ちの超人である。
その様子を、屋根の上から見ていたスラムキッズたちがざわめき出す。
「今“戦車かよ”って言ってたぞ!じゃあ赤毛の兄ちゃん、戦車ってことでいい?」
「チャレンジャーだろ?あいつアルキードから来たって言ってたし」
「いや、あの図体はもっとデケェやつだって!マウスとかティーガーとか?」
「戦車は毎回型が違うんだよ!この兄ちゃんは“ワンコ型”だな!」
屋根の上でワイワイ盛り上がるキッズたち。
路地裏の殴り合いは“伝説のプロレス”から“勇者戦車決定戦”にシフトし始めていた。