東京タワーの頂は、思ったよりも早く冷えていった。
夜景はまだ瞬いているのに、見物は終わりだと、誰もが無言で理解している。
ロコは尻尾を丸め、ティアは周囲の暗闇に視線を走らせ。
メーデンは名残惜しそうに、もう一度だけ街を振り返った。
悠馬だけが、少し遅れていた。
鉄骨の端で前髪を揺らしながら、彼は遠くを見ていた。
まるで夜景ではなく、その“向こう側”を眺めているような目で。
「……早く帰らないと、また閉じ込められるかもしれないな」
音としては、あまりにも小さい。
だが、その言葉は、確実に全員の鼓膜を打った。
レイスが振り返る。
反射に近い動きだった。
だが、悠馬はすでにいつもの表情に戻っていた。
何事もなかったかのように、ぱっと笑って言う。
「さ、下ろうか!」
あまりに自然で、あまりに“普通”で。
逆に、さっきの言葉の方が現実味を帯びる。
ロコが小声で、耳を伏せながら囁く。
「“閉じ込められる”って……誰に、ニャ?」
メーデンは答えられなかった。
ただ、不安そうに悠馬の背中を見る。
「だいじょうぶ、かな……」
悠馬はもう振り返らない。
軽やかに足場を選び、ここが地面であるかのように渡っていく。
その背が、視界から消えた瞬間。
ふっと、風が吹いた。
強風ではない。
だが、確実に“質”が違う風だった。
湿り気も、匂いも、温度も、どこか均一で。
まるで、この場所に残った“何か”を洗い流すような。
レイスが、低く呟く。
「……本当に、帰っちまったみたいだな」
ロコが身震いする。
「なんか、寒くなってきたニャ……」
ティアは眉をひそめ、周囲を見回す。
「妙に静かだな……動物も鳴いてない」
さっきまで遠くで聞こえていた羽音も、夜行生物の気配も。
いつの間にか、消えていた。
レイスは煙草を取り出し、火を点ける。
だが、吸わずにそのまま、夜に向けて吐き出した。
(あいつ、やっぱり……)
悠馬という名は、たぶん仮のものだ。
そして「今夜まで」という期限は、彼自身に課されたものではない。
誰かに。あるいは――どこかに。
東京の夜景は、何も知らずに輝き続けている。
だが、レイスだけは確信していた。
今日、ロストサイドは“通過された”。
そして次に悠馬が現れる時。
それはきっと――偶然を装った必然になる。
風魔宮・夜の執務室
風魔宮の夜は静かすぎる。
壁に埋め込まれた魔導灯が、規則正しく淡い光を吐き。
広すぎる執務室に、時計の音だけが響いていた。
フラウロスは腕時計を睨みつけながら、床をトントンと踏み鳴らす。
その顔は笑っていない。
完全に、腹黒ムード全開だ。
「……あのガキぃ……」
舌打ちを噛み殺すでもなく、吐き捨てる。
「評議会の出席が控えてんだぞ……軟禁される前に帰ってこいっての……」
“魔王”という肩書きと、“保護対象”という現実。
その板挟みに遭うのは、いつもこの男だった。
――そのとき。
玄関の扉が、ガチャリと音を立てて開く。
何事もなかったかのように、一人の少年が入ってくる。
黒い学ラン。ボロい学生カバン。
外では、どこからどう見ても迷子の子供。
だが――風魔宮の空気が、わずかに張り詰めた。
フラウロスは即座に振り返り、皮肉を叩きつける。
「おかえりなさいませぇ、ぼっちゃま」
舌打ち混じり。
だが、言葉遣いは完璧な敬語。
魔界式の忠誠と苛立ちが、同時に詰め込まれている。
悠馬――否、魔王は靴を脱ぎながら視線を上げた。
その目が、一瞬だけギラリと光る。
「フラウロス。評議会のオッサンどもには、僕の外出は知られてないか?」
声のトーンが違う。
ロストサイドで見せていた、素の少年のそれではない。
“判断する者”の声音。
フラウロスは、スッと背筋を伸ばす。
仕事人の顔に切り替わった。
「その辺に関しては、しっかりやってますよ」
一歩も無駄にしない言い切り。
「ナメ腐る連中ですが、あんたは曲がりなりにも魔界のトップですからね」
口の端が、僅かに吊り上がる。
「ボンクラどもには、一泡吹かせてやりましょう」
悠馬は鼻で笑った。
「……ああ。あいつらの二枚舌。いや、三枚舌には呆れるよ」
執務室の空気が、ひときわ冷える。
「僕が少し席を外したくらいで、“革命ごっこ”でも始めたいんだろう」
その言葉と同時に、目が一瞬、はっきりと“魔王のそれ”になる。
さっきまで、鉄骨の上で夜景に笑っていた少年の面影はない。
フラウロスは一拍置いて、深く息を吐いた。
「……さすが。魔王様は分かってらっしゃる」
そして、少しだけ声を低くする。
「明日は“普通の少年”ムーブ、厳禁でお願いしますよ?オロバス様」
皮肉百パーセント。
だが、その奥には、明確な本気がある。
悠馬は、肩の力を抜いた。
バレバレの苦笑。
「分かったよ……」
そして、ほんの少しだけ、柔らかく言う。
「でも、今日は楽しかった」
フラウロスが眉を動かす。
「“レッドデビル”は良かったな。人間界も……悪くない」
その言葉には、余裕があった。
外での無邪気さとも、内での威圧とも違う、魔王として世界を見下ろす静けさ。
フラウロスは、苦虫を噛み潰したような顔になる。
「……まったく」
頭を掻きながら、ぼやく。
「オッサンたちより、よっぽど厄介なガキですよ、あんたは」
だが次の瞬間、声色は完全に“保護者”だ。
「さっさと風呂入って寝ろ。寝坊したら、俺の首が飛ぶ」
悠馬は、執務室の奥へ歩きながら、ふと足を止めた。
「……外の世界、好きなんだよ」
その背中は、少しだけ小さい。
「でも……」
フラウロスが、珍しく問い返す。
「でも?」
悠馬は振り返らない。
「全部が、うまくいくわけじゃない。知ってるだろ?」
風魔宮の時計が、また刻む。
この魔王は、世界を壊す力を持ちながら、壊れる側の理屈も知っている。
だからこそ厄介で、だからこそ、守らなければならない。
扉が閉まる音がして、執務室に残ったのは、時計の音だけ。
風魔宮の回廊は、夜になると柱が長い影を落とす。
魔界特有の黒い大理石は光を反射せず。
歩く者の輪郭だけを、くっきりと切り取る。
悠馬は、何も言わずに歩いていく。
学ラン姿のまま。
外の世界で纏っていた、“ただの少年”の姿のまま。
柱の影に差しかかった、その瞬間だった。
闇が彼を飲み込み、影が歪む。
少年の影は、柱を通り抜けた瞬間、別の形を取った。
肩から背へ、布が流れる影。
学ランには存在しないはずの、長く、重いシルエット。
風を孕み、堂々と翻る――マント。
背丈は変わらない。
体格も、決して大きくない。
むしろ、少し華奢ですらある。
だが。その立ち姿は、迷いも遠慮も、隠しもしない。
王のそれだった。
夜の闇に浮かび上がる輪郭は、鋭く、凛として。
そしてあまりにも自然に、そこに在る。
“悠馬”ではない。
仮の名でも、迷子でもない。
魔界を統べる者。
風を従え、封じられ、なお頂に立つ存在。
――魔王オロバス。
フラウロスは、影が完全に変わったのを見届けてから、息を吐いた。
「……まったく」
誰に向けるでもなく、呟く。
「本当に、面倒なガキですよ。うちの“魔王様”は」
だが、その声に、苛立ちはもうない。
あるのは諦観と、覚悟と、そしてほんの少しの誇らしさ。
闇の向こうで、マントの影が揺れ、やがて夜に溶けていく。
この世界には、“少年”として現れ“王”として去る存在がいる。
そしてその魔王は、今夜――確かに、外の世界を見て帰ってきた。