TEMPEST-1章 - 4/5

悠馬がロストサイドに姿を見せなくなって、数日が経った。
あの“学ランの少年”がいないだけで、
街の空気がほんの少し変わった気がするのは、きっと気のせいではない。
その日のハンターオフィスに舞い込んだ依頼は、驚くほど拍子抜けするものだった。

――サンシャイン60展望台で、愛犬とはぐれてしまった。
依頼主は中年の女性で、声は震えていたが取り乱してはいない。
話によれば、展望台へ向かうエレベーターに乗る際、うっかり犬を乗せ忘れてしまったらしい。
振り返った時には扉が閉まり、上へ。
戻った時には、犬の姿はなかった。

「あの子はとてもいい子なんです」
「吠えもしないし、噛んだこともありません」
「きっと、どこかでお座りして待っていると思います」
名前はラッキー。小型犬。首輪あり。迷子歴、ゼロ。
やることは単純だ。
エレベーターで最上階に行き、犬を探して連れ帰る。
危険度も低く、報酬もそこそこ。
ロストサイド基準で言えば、“楽な仕事”に分類される。
だからこそ、異変は目立った。

「……そこだけは、行きたくねぇ」
レイスが、はっきりそう言った。
ハンターオフィスの空気が、一瞬止まる。
メーデンが目を瞬かせ、ロコが耳をぴくりと動かした。
ティアは無言で、レイスの顔を一度だけ見る。

「え?今、なんて?」
誰もが聞き返したくなるほど、珍しい反応だった。
普段なら、どんな依頼だろうが真っ先に噛みついてくる男だ。
廃病院? 行く。地下水路? 行く。意味不明な呪物? 文句言いながら行く。
それが――サンシャイン60。

「レイスが?」
「高い所、嫌いだっけ?」
ロコの問いに、レイスは煙草を一本取り出し、火もつけずに指で転がした。
苛立ちとも違う。
どちらかといえば、嫌悪に近い。
「……嫌いとかじゃねぇよ」
「ただ、あそこはダメだ」
言葉を選ぶように、一拍置く。
「“落ちる”場所だ」
その一言が、妙に重かった。

メーデンは不安そうに眉を下げる。
「落ちる……? 展望台ですよね?」
「だからだよ」
レイスは視線を逸らしたまま続ける。
「高いとか、低いとか、そういう話じゃねぇ」
ロストサイドには、いくつも“境界”がある。
世界と世界の隙間。
生と死のズレ。
現実と、それ以外。

サンシャイン60は、そのどれにも属していないようで、どれにも近すぎる場所だ。
ティアが小さくため息をつく。
「……じゃあ、行かないって選択肢は?」
「ねぇな」
レイスは即答した。
「依頼は依頼だ」
煙草をポケットに戻し、立ち上がる。

「俺は下で待つ」
「展望台には行かねぇが、逃げもしねぇ」
その背中は、いつもより少しだけ硬かった。
こうして一行は向かう。
ロストサイドの空を突き刺す、あまりにも“まっすぐな”塔へ。

夕焼けが、ロストサイドのビル群の隙間に沈みかけていた。
壊れたガラスと崩れた外壁が、最後の光を鈍く反射している。
かつて人で溢れていた通りは、今では瓦礫と影だけが主役だ。

サンシャイン60。
その名だけが、奇妙なほど綺麗に残っていた。
入口の看板は傾き、照明は死んでいる。
だが文字だけは、まだ読めた。
まるで――ここが“舞台”だと、今も主張しているみたいに。
その前に、男が一人立っている。

レイスは、建物に背を向けていた。
正確には、建物を見ない位置を選んで立っていた。
視線は低く、夕陽でも夜景でもなく、ただ割れたアスファルトの一点に落ちている。

――行かない。
それを、全身で表現している。

夕日が、完全に沈む。
空の色が紫に変わる。
建物の影が長く伸び、サンシャイン60は“塔”ではなく、“穴”のように見え始める。

レイスは、煙草を取り出す。
だが火はつけない。つける気もない。
ただ、ここで待つ。落ちる場所の、外側で。
それが逃げでも、臆病でもないことを、彼自身が一番よく知っていた。
夕闇の中、サンシャイン60は静かに“次に落ちるもの”を待っている。

ラッキーは、すぐに見つかった。

飼い主の女性の言葉通り、エレベーターの入口のすぐ脇で、きちんとお座りをしていた。
小さな体で、ぱたぱたと尻尾を振りながら、人の流れを見上げている。
迷子にありがちな怯えも、焦りもない。
ただ、待っているだけだった。

「……あ、この子かな!?」
メーデンが声を上げる。
「間違いないな。この子だ」
ティアは首輪を確認し、頷く。
「よしよ~し、オレたちが来たからもうすぐ帰れるぞ」
ロコがしゃがみ込み、犬の頭を撫でる。
あまりにも平和な光景だった。
拍子抜けするほど、何事もなく終わる――はずだった。
その男を、視界に入れてしまうまでは。

展望台の奥。
ガラス張りの最前列。
夜の東京を見下ろす位置に、ひとつだけ“異物”が立っていた。

腕を組み、動かない。
背中を伸ばし、ただ立っているだけ。
なのに。その背丈が、明らかにおかしい。
人が立っているというより、像が置かれているような錯覚。

「……え」
メーデンが、無意識に声を漏らす。
「あの展望台の人……」
言葉を探す間もなく、目を見開く。
「……おっきくないですか!?」
「いやデカいどころじゃねーだろ!?」
ロコが即座に突っ込む。

「フォトショの合成ミスか!? あの高さで立ってんの反則だって!!」
ティアは笑わない。
眉をひそめ、視線を鋭くする。
「おい、待て」
「……あれ、普通に人じゃねぇ」
背景には、燃え残った東京の夜景。
ネオンと瓦礫と闇が混ざり合うロストサイド。
その前に立つだけで、空気の重さが変わる。

まるで展望台そのものの一部みたいにそこにいた。
呼吸すら感じさせない。
“生きている”というより、存在しているだけで、場のスケールを歪めている。
視線はガラスの向こう、遥か下。
街を見ているのか、過去を見ているのか、それとも何も見ていないのか。
少なくとも、メーデンたちを意識している様子はなかった。

「……気づいてない?」
メーデンが小声で囁く。
「いやいや、絶対見えてるだろ」
ロコが喉を鳴らす。
「あの距離で、あのデカさで、気づかないはずがねぇ」
ティアは静かに息を吐いた。
「……問題はな」
「気づいてないフリをしてるかどうかだ」
展望台の空気が、目に見えない圧で押し潰されていく。
ラッキーが、小さく鳴いた。

その瞬間。
世界は、まだ静かだった。
だが全員が理解していた。
この場にいる“最大の存在”は、犬でも、依頼でもない。
魔王が、まだこちらを振り向いていないだけだということを。
ロコは、喉を鳴らすように小さく息を吸った。

「……やべぇ。アレ、ラスボスだろ……」
声を落とし、半歩だけ下がる。
逃げ腰というより、正しい距離感を取ろうとする本能だった。
「……みなかったことにしようぜ」
「俺達レベル、絶対足りねぇ」
メーデンも、小さく頷いた。
その時点では、確かにそう見えていたのだ。
視線は夜景の向こう。
人間にも、犬にも、ハンターにも向いていない。
――ただ、音が鳴るまでは。

メーデンが、壁に肘を軽く当てた。
コツン、という、あまりにも小さな音。

その瞬間。
魔王-ベリアルの肩が、ほんのわずかに揺れた。
次いで、首が傾く。
ゆっくりと、だが寸分の狂いもなく。
虚空に向いていた視線が、音の発生源へと正確に収束する。

「……レイスじゃないね?」
声は、驚くほど陽気だった。
柔らかく、よく通る声。
まるで旧知の友を探すみたいに。
メーデンの喉が鳴る。

「ひぇ……」
距離は、まだある。
だが、ベリアルが一歩踏み出した瞬間。
“遠い”という概念が意味を失った。
歩幅が違う、脚の長さが違う。数歩で景色が詰まる。

「やぁ、お嬢さん」
「君みたいなのは、珍しいねぇ」
笑顔のまま、見下ろしてくる。
威圧している自覚すらない。
メーデンは怖かったが、目を逸らさなかった。
「……珍しい、とは?」
声は少し震えたが、言葉は投げ返した。
ベリアルは、楽しそうに目を細める。

「普通ならね」
「俺を前にしたら、みんな震えて黙るんだよ」
観察するような視線。
値踏みではなく、興味だ。
「でも君は違う」
「目も逸らさないし、ちゃんと聞き返してくる」
ニコッと笑う。
だが、その目は、まったく笑っていなかった。

「――いいね」
「自我があって、いい」
その言葉が落ちた瞬間、展望台の空気が、わずかに軋んだ。

同じ頃-サンシャイン60の外。
レイスは、壁にもたれ、煙草をふかしていた。
展望台に入らない。
入る気もない。

珍しいことだ。
いつもの無鉄砲さは、影も形もない。
ただ、不機嫌そうに、夜を睨んでいる。
そこへ、観光帰りのカップルが通りかかった。

「ねぇ、なんかさ」
「アポロンみたいな人、いたよね?」
「うん、マジでギリシャ神話だった」
「月桂冠かぶってたし」
カランと音がした。
レイスの指から、煙草が落ちる音だ。
眉が、ピクリと跳ね上がる。
顔色が、一瞬で変わる。

「……あの野郎……!」
歯噛みする。
「嫌がらせか!?嫌がらせだな! 俺へのッ!!」
怒りが、火花みたいに爆ぜる。
煙草を地面に叩きつけ、踏み消す。
次の瞬間レイスは、非常階段のドアを蹴り開けていた。
「えっ……はやっ……」
「な、なんかヤバいこと言っちゃった?」
カップルの声は、もう背後だった。

鉄の扉が、轟音を立てて開く。
レイスは、一段飛ばしで駆け上がる。
普通なら、息が上がる。
普通なら、速度は落ちる。

――だがレイスは、加速していた。
足音が、鉄の階段を叩き割るように響く。
一歩一歩が、重い。
まるで、獣が咆哮しながら駆け上がってくるみたいに。

展望台の上で、神格が微笑み、下から、怒りが迫ってくる。
サンシャイン60は、今夜、もう一度“落ちる瞬間”を迎えようとしていた。
ラッキーは、メーデンの腕の中で落ち着いていた。
騒がしい人間の気配にも怯えず、ただ展望台の光を見上げている。

――このまま終わると、誰もがそう思っていた。
ほんの、雑談だった。
緊張を誤魔化すような、軽口の延長。

「……ねぇ」
誰かが、空気を読まずに言った。
「悪魔王って……どれだけ強いの?」
あまりにも無邪気で、あまりにも場違いな質問。
展望台の空気が、一瞬だけ凍った。

ネオンの反射音も、ガラス越しの風の音も、消えた気がした。
ベリアルは、すぐには振り返らなかった。
東京の夜景を見下ろしたまま、肩をすくめる。
そして、ゆっくりとこちらを向く。
「ん~?」
声音は、変わらない。
朗らかで、楽しげで、まるで冗談を待っていたみたいに。

「試してあげてもいいんだよ」
にこにこ、と笑う。
その笑顔は、完璧だった。
「安心しなよ」
「あの子と違って――」
ほんの一瞬、視線が宙を泳ぐ。
明らかに、誰かを指している。

「俺は、加減できるさ」
その言葉が落ちた――瞬間。
非常階段側のドアが、爆音とともに吹き飛んだ。