TEMPEST-1章 - 5/5

悲鳴が遅れて、いくつも重なる。
ベリアルは驚かず、笑顔を崩さない。
ただ、視線だけをそちらへ向ける。

「おやおや。お行儀が悪い」
その声は、どこまでも穏やかだった。
「……わざわざ会いに来てやったのに」
瓦礫の向こうに、レイスが立っている。
息は荒く、目は血走り、怒りだけで形を保っているみたいな顔。
「レイスさん!?」
メーデンが叫ぶ。

「どうしたんですか!? 引き摺っても行かないって――」
レイスは答えない。
ただ、一点だけを睨み続ける。
「……ベリアル」
声が低い。
噛み潰すような音。
「“ここ”に、また立たせんじゃねぇ!!!!」
怒号と同時に銃が抜かれ、躊躇なく発砲された。
銃声が、展望台に反響する。
弾丸は夜景の光を映し込みながら、一直線に飛ぶ。

だがベリアルは、動かない。
右手をふわりと上げ、指先で弾丸を挟み止めた。
止まったはずの弾丸は、ギュルギュルと回転し続け。
金属と皮膚の摩擦音が、空気を震わせる。
誰も、息ができなかった。

ベリアルは、にこやかなまま。
だが――目だけが、冷えていた。
「ダメだよ、レイス」
諭すように、穏やかに。
「……アンガーマネジメントって、教わらなかったのかい?」
観光客たちは、完全に誤解していた。
「演出?」「ショー?」
そう思い込み、逃げ遅れる。
“銃弾を素手で止める”という光景に、凍りついた。
ベリアルは、弾丸をつまんだまま、軽くため息をついた。

「レイス。ここは、展望台だよ?」
くるりと弾丸を指で弄びながら。
「戦場ではないんだ、銃をしまいなさい」
正論だった。
あまりにも、落ち着いた正論。
観光客のひそひそ声が、場違いに響く。

「え……アポロン様みたいな人が、正論言ってて……」
「隣の赤毛の子が、銃乱射してる……」
「どっちが悪役かわかんなくなってきた」
その瞬間、誰もが理解した。
――悪魔王は、完全に“乗った”。

ここから先は、もう「見つかった」では済まない。
英雄が落ちた塔で、太陽は、遊ぶ気になったのだ。

指の間で震えていた弾丸が、ふっと力を失ったみたいに静止した。
ベリアルは興味を失った玩具みたいに、ひょいと放る。
カラン、と乾いた金属音が展望台の床を転がり、夜景の光をひっかいて弾けた。

「相変わらず、感情任せのバカだな」
陽気な声が響く。声は軽いのに、言葉の刃だけが鋭い。
「そうやってすぐ頭に血が上るから……魔王になれないんだよ」
レイスの表情が一瞬ひきつり、喉の奥で何かが燃える。
「結構だ。支配者になるなんて――吐き気がする」
視界の端で、メーデンが不安げに首をかしげる。

「えー……どういう空気?」
その一言で、むしろ場が張り詰めた。
レイスは一歩前に出た。
銃を持つ右手とは別に、左手でメーデンをかばうように背後へ押しやる。
「嬢ちゃん」
低い声が震える。
「その白いのから距離を取れ。すぐにだ……!」
銃口の先、ベリアルは戦闘態勢すら取らず、子供の劇でも見ているような顔をしていた。
肩を揺らして笑い、ひらひらと手を振る。その仕草に不気味な余裕が滲む。
夜景の光が揺れて、まるで“遊園地のピエロ”みたいな影ができた。

「レイス、久しぶりに顔合わせして――」
ベリアルは楽しげに首を傾ける。笑顔なのに、眼だけは何も笑っていない。
「多少は激情に任せるとこが治ったかと思ったけど」
「相変わらず勇者ごっこしてるみたいで、安心したよ」
「えらいね! そうやって格下狩りで優越感を保っているのか」
その言葉は完全にレイスの急所。真正面から殴りつけるような煽り。
レイスの歯が強く噛み合わされ、きしりと音がした。
こめかみが脈打つ。銃口が震える。

(ここで撃てば、展望台の全員が死ぬ。あいつは絶対にそれを狙ってる……!)
(落ち着け……落ち着け……クソッ、なんでこんな時に……!)
メーデンが堪えきれず前に出る。
「ちょっと! レイスさんをいじめないでください!」
「まぁ……確かに問題あるけど……」
「追撃すんなッッ!!!」
レイスが血の涙のテンションで叫ぶ。
怒りで声が裏返り、足元の床まで震えた。

――展望台のガラス越しに広がるロストサイドの夜景。
まるでこの“家族喧嘩”の続きが世界をどう塗り替えるかを静かに見下ろしていた。
ベリアルは、わざとらしく首をかしげた。
細めた目が、笑っているのか、それとも値踏みしているのか判断できない。
そして軽く息を吐いた。

「……んん?」
「俺はただ、“孫”に言い聞かせてるんだよ」
その言葉が落ちた瞬間――展望台の空気が破裂した。
「孫オオォォーーー!?!?!?」
一番大きく反応したのはメーデンだった。
声が裏返り、展望台中に響き渡る。
今まで怯えて目を伏せていた観光客たちが、一斉に顔を上げた。

「えっ!?!?孫!?!?」
「いじいじと孫!?」
「どゆ関係!?!?あの二人家族なの!?」
恐怖を上回る勢いで混乱が広がる。
人間は未知の怪物よりも、想定外の家族関係のほうが混乱するらしい。
ベリアルはひらひらと手を振り、芝居がかった仕草で肩をすくめる。

「え〜? 別に俺、秘蔵っ子なんて言ってなかったよ?」
「このコが認めないんだ」
困り眉でレイスを見やり、ほんの少しだけ悲しそうに微笑む。
「――悪い子」
その瞬間。
レイスの怒りが、爆発する寸前で止まった。
「ベリアルッ……!!」
声は喉の奥で裂けた。
銃を構えた右手が震える。
でも――撃てない。撃てるわけがない。

(今ここで撃ったら……展望台にいる全員が死ぬ。
……いや、絶対それ目当てだろ、クソ悪魔が……!)
歯ぎしりの音が、メーデンの耳にも届いた。
ベリアルはくるりと夜景に背を向けた。
白い布が滑るように揺れ、まるで舞台の幕みたいに視界をさらう。

「怖い怖い」
「わかってるよ、“ここは戦場じゃない”ってことだろ?」
軽口の延長みたいな声で、銃弾を素手で止めた悪魔王が言う。
「また落ちたくないから――そろそろ帰らせてもらうよ」
夜景の光を背負ったまま、その輪郭が霧のように薄れていく。
最後に残ったのは、観光客たちの混乱だった。

「家系図どうなってんの!?」
「さっきの赤い子、反抗期!?」
「は? 魔王家族喧嘩ショー???」
完全に理解を放棄した人間たちのざわめき。
そして――レイスの拳が、怒りで震え続ける。
倒せなかったからじゃない。
勝てなかったからでもない。
ベリアルは、一度も本気を出していない。

ただ喋って、煽って、空気を支配して、余裕で立ち去った。
力の差ではない、もっと根の深いもの――。
“心の主導権”が誰の手にあるかを、嫌と言うほど見せつけられた。
ガラスの向こうの夜景だけが、何事もなかったかのように輝いている。
「……クソッ……」
レイスは吐き捨てた。
悔しさより、嫌悪より、もっと深い、血の記憶みたいな感情を押し殺しながら。

展望台に、ゆっくりとざわめきが戻った。
観光客たちは口々に混乱の名残を抱えたまま。
“太陽神の幻”が去ったあと、何事もなかったかのように夜景へ視線を戻していく。
だが、レイスだけはその流れに戻れなかった。

力が抜け、壁にもたれるように展望ガラスへ歩き。
ずるりと肩を落としたまま額をガラスに押し付ける。
呼吸が荒い。
肺が空気を拒み、代わりに昔の炎を吸い込んでいるかのようだった。
「……だから、ここ来たくなかったんだ」
ティアが眉を寄せる。

「あんた……よほど嫌な思い出があるみたいね」
レイスはゆっくりと目を閉じた。
その声は、過去を無理やり引っ張り出されるような重さを帯びていた。
レイスの掌が、冷たい展望ガラスに触れた。
都市の夜景は静かで、人工の星々がどこまでも明るかった。
けれど、彼の瞳に映っていたのは――今の東京ではない。

呼吸が浅くなる。
胸がうまく膨らまない。
汗が頬を伝うのに、背中だけが凍りついたように冷たかった。
展望台の外に広がる光が、一瞬だけ色を変えた気がした。

青白い街灯の明かりが、炎に包まれた「あの日」の赤に反転する。
自動車のライトが、避難サイレンのまばたきと重なる。
都市のざわめきが、割れたスピーカーの断続的なアナウンスと混ざり合う。
「……また……だ」
レイスは小さく吐き出した。
声が震え、ガラスに付いた白い息がすぐに揺らいで消えた。

炎の柱が上がる。
倒壊寸前のビルが傾き、空が真っ赤に染まる。
サイレンの音が、狂ったテープのように途切れながら響く。
『――核兵器の使用が確認されまし……』
『……避難……繰り返します……退避……』
音が崩れ、街の全てが悲鳴を上げる。
サンシャイン60。
まったく同じ展望ガラスの前で、レイスはベリアルに突き落とされた。

割れたガラス片が光の雨のように舞う。
地面へと吸い込まれていく感覚。
空気が胸から押し出される。
叫び声が喉から勝手にあふれる。

全部が、レイスの掌の下でよみがえる。
「……落ちる……」
「落ちる感覚……まだ……消えねぇ……」
レイスの声は乾いていた。
ガラスが微かに震えた。
彼の汗と呼吸が、夜景を曇らせる。
燃え落ちた東京と、今の東京が重なり、ずれる。
どちらが本物か、一瞬わからなくなる。

メーデンが息を呑む。
ティアもロコも、声をかけられずに立ち尽くした。
レイスの横顔は、現在と過去の境界に置き去りにされた人間のそれだった。
メーデンが、おそるおそる近づく。
「レイスさん……」
レイスはガラスを見たまま言う。

「……大災害は、あいつ一人で起きたんじゃない」
その言い方には妙な静けさがあった。
怒りでも、悲しみでもない。
燃え尽きた後に残る、白い灰のような声。
「……あいつも要員だ」
「だが、東京を焼いたのは――人間自身だ」
メーデンは、胸の奥をつかまれたように息を呑んだ。

「……ごめんなさい」
「そんな……嫌いな場所だなんて、知らずに……」
その声は、普段の明るさとはまったく違う。
寄り添おうとする意志だけで出来ている響き。
メーデンはガラス越しに東京を見つめた。
「……東京」
その言葉は、今では誰も使わない名前。
滅ぶ前の街が持っていた、本当の呼び名。

「ここって……本当は“東京”って言うんですね」
「……滅んでも、綺麗だって思いますよ。私は」
恐怖でも悲しみでもない。
今の光を、ただ美しいと感じる瞳。
レイスは短く息を吐いた。

「……言ってろ」
吐き捨てるような声だった。
だが、その場を離れる気配もない。
追い払うような仕草もない。
ただ額をガラスに預け、息が白く曇り。
向こうに広がる壊れた東京を、じっと見下ろしていた。
まるで“落ちた場所”が、まだ胸の奥にあるように。