なかよしハイツ前の空気は、夕方になるほど妙にやさしい色をしていた。
冬の光は薄く、坂の上から流れてくる風は冷たいのに、どこかだけぬるい。
深淵という場所は、そういうふうに平然と季節感を壊す。
サッカーボールが壁に当たる乾いた音と。
ローラースケートのLEDが地面に散らす安っぽい虹色だけが。
いまこの場所がわりと平和であることを証明していた。
坊ちゃんは、今日もいつも通りだった。
邪神がいるとか、六将がいるとか、そういうことは彼の世界では。
「近所のへんな大人が増えた」以上の意味を持たない。
アバドン生まれの子どもというのは、時々とんでもなく図太い。
アンラ・マンユが紙袋を片手に立っている。
その隣でドレッドノートが腕を組み、眉間に皺を寄せている。
少し離れたところでウラヌスがローラースケートのつま先を鳴らしながら。
何か面白いことが起きる予感ににやにやしていた。
坊ちゃんはアンラのことを指さした。
「チョコのおじさん!」
アンラは少しだけ笑う。
「それは新しいな」
「社長って高いチョコみたいだからでしょ?」
ウラヌスが横から口を挟む。
「うん、わかりやすい」
「君の語彙は時々ひどく雑だねえ」
その直後だった。
坊ちゃんの視線が、すっと横へ滑った。
金髪。鎧。でかい。きらきらしている。
そして、やたら髪がふわっと広がっている。
少年は数秒だけ真顔で観察したのち、迷いなく言った。
「あ!ライオンのおじさんだ」
世界が止まった。
正確には、止まったのはドレッドノートだけだった。
「……ライオン?」
あまりにも静かな声だったので、逆に周囲がざわついた。
本人の中で衝撃がでかすぎると、人は一周回って落ち着いた声を出す。
それは神でも同じらしい。
ドレッドノートはゆっくりと坊ちゃんを見下ろした。少年はまるで悪気がない。
「見たまんまを言っただけですけど?」みたいな素直すぎる顔をしている。
ウラヌスが、数秒遅れて噴き出した。
「っ、あは、ははっ、ドレ様鏡見なよww」
彼女は腹を抱えながら言う。
「髪、ほぼライオンだよ? 金でふわってて、ここらへんとか完全にたてがみじゃん」
アンラが横目でドレッドノートを見た。
妙に真顔だった。こういう時の彼は、笑っているより真顔のほうが危ない。
「たしかに」
「乗るな!!」
ドレッドノートの声が裏返った。
「いや待て、髪型がそう見えるのは、百歩譲ってまだ理解する!」
彼は自分で“百歩譲って”と言いながら、もう全然譲っていない顔をしていた。
「だが今の少年は言ったな!?」
指を震わせて坊ちゃんを指す。
「お じ さ ん と!!」
そこでようやく、本当のダメージ箇所が露呈した。
髪型の比喩ではない。そこではない。問題は分類だった。
アンラと同じ箱に、何のためらいもなく自分が入れられた。
そのうえ“ライオン”という微妙に愛嬌のある接頭辞つきで。
荘厳さも救世主性もへったくれもない、近所のおじさん。
終 わ り で あ る。
「泣くわ!!!!!!」
絶叫が坂道に響いた。
ウラヌスは膝を叩いて笑っている。
「邪神がおじさんって言われて泣くなよww」
「泣くだろうが!!ライオンはまだしも!!おじさんは!!普通に刺さる!!」
「刺さり方が人間なんよ」
「うるさい!!」
アンラは肩を揺らした。笑っている。完全に笑っている。
「いやあ、いいじゃないかドレ。親しみやすい」
「親しみやすさの問題ではない!!」
「むしろ誇るべきだと思うけどねぇ。子どもに恐れられないのは美徳だよ」
「貴様は最初からおじさん枠に自分から入っていっただろうが!! 私は違う!!」
「でも今のは完全に“ライオンのおじさん”だったよ?」
「やめろ!! 再確認するな!!」
坊ちゃんはきょとんとしていた。
なぜこんなに大騒ぎになっているのか、本気でわかっていない。
子どもとはそういうものだ。
正確すぎる観察が、時々大人の急所にそのまま刺さる。
「え、だってライオンっぽいよ?」
「どこがだ!!」
「髪」
「髪だけで判断するな!!」
「あと、なんか強そう」
「それはいい」
「でも、おじさん」
「そこを消せ!!」
ウラヌスがまた笑い転げた。
「選別が容赦なくて草」
「草ではない!!」
「アンラがチョコのおじさんで、ドレ様がライオンのおじさん」
「分類が雑!!」
「でもわかりやすいよ?」
「わかりやすくするな!!」
坊ちゃんは少し考えて、フォローのつもりで言った。
「じゃあ、かっこいいライオンのおじさん!」
「そこではない!!」
もはや崩壊である。
ドレッドノートは本気で膝をつきかけた。
アンラが横からさらりと追撃する。
「よかったじゃないか、グレードアップして」
「どこがだ!! “おじさん”の前に形容詞がついただけだろうが!!」
「高級バウムクーヘンよりはマシでは?」
「その話を蒸し返すな!!!!!!」
ウラヌスは笑いすぎてローラースケートのブレーキがうまく利かなくなっていた。
危うく縁石に突っ込みかけて、片足でぴょんとバランスを取る。
「もーだめ、今日いちばん笑った」
「君は毎日楽しそうで何よりだな……!」
「だってドレ様いま“ライオンのおじさん”だよ?面白すぎるでしょ」
「やかましい!!」
アンラは、泣くわと叫んだきり。
本気で項垂れているドレッドノートを見て、いかにも楽しそうに目を細めた。
「ドレ」
「話しかけるな」
「君、結構ちゃんと人間の言葉で傷つくね」
「貴様が言うな!!」
「いや、褒めてるんだよ。いい傾向だ」
「褒めるな!! 最悪の角度から褒めるな!!」
坊ちゃんはそんな大人たちを見比べて、最後に無邪気な結論を出した。
「でも二人とも、おじさんでしょ?」
終幕だった。
アンラは笑った。ウラヌスはとうとうその場にしゃがみ込んだ。
そしてドレッドノートは、静かに顔を覆った。
「………………」
「ドレ様?」
「……二人とも、はやめてくれ」
「なんで?」
「巻き添えにされると、妙に現実味が増すからだ……」
声が弱い。完全敗北である。
アンラは楽しそうに坊ちゃんの頭を撫でた。
「うん、そうだね。おじさんだ」
「貴様はいいだろうが!! 最初から開き直っている側は強いんだよ!!」
「ライオンのおじさん、元気出して」
「追撃するな坊ちゃん!!!!!!」
夕方の光が、坂道に長い影を落としていた。
サッカーボールは足元で止まり、LEDの光はまだちらちらと地面を撫でている。
深淵にもバレンタインデーは来る。
邪神にもチョコは配られる。
そして時々、世界を何億回やり直した神ですら。
近所の子どもから“おじさん”と呼ばれて泣く。
なかよしハイツ前は、今日もだいたい平和だった。
笑いの余波がまだ坂道に残っていた。
ウラヌスはしゃがみ込んだまま肩を震わせ。
アンラ・マンユは実に愉快そうな顔で腕を組み。
ドレッドノートは精神的に一度死んでいた。
冬の夕方の空気は冷たいはずなのに、この場だけ妙に生ぬるい。
深淵はこういうとき、だいたい空気まで面白がる。
坊ちゃんは、少し満足そうだった。
目の前の大人たちがやたら騒いでいるが、自分はただ事実を述べただけである。
子どもとは、ときに神すら分別ゴミのように分類する生き物だ。
「チョコのおじさんと、ライオンのおじさん」
確認するように言って、うん、と頷く。
ドレッドノートがまた顔を覆った。
「確認するな……ッ」
「ドレ様まだ引きずってんの?」
「引きずるに決まっているだろうが!! 分類されたのだぞ私は!!」
「いや今さらでは?」
アンラがさらりと言う。
「君だって普段、世界のあらゆるものを勝手にカテゴリ分けしてるじゃないか」
「する側とされる側では話が違う!!」
「面倒な神だねえ」
ウラヌスが笑いを噛み殺しながら、ふと首を傾げた。
「ていうかさ」
「何だ」
「ここにディヴァイン様いたら、坊ちゃん何て言うんだろ」
その一言で、少しだけ空気が変わった。
坂の下から、風が抜ける。
日が落ちかけた空は鈍い群青に変わり始め。
街灯の明かりがぽつぽつと灯り出す。
その空気の変化に紛れるように、気配がひとつ増えた。
いた。
最初からそこにいたみたいな顔で、ディヴァインは低い塀に腰掛けていた。
長い脚を組み、静かにスナック菓子を食べている。
誰にも挨拶しないし、気配を主張しないくせに。
いるだけで周囲の光景の焦点が少しずれる。
ドレッドノートがぎょっとして振り向く。
「いつからいた!?」
「ここに居るからだ」
「答えになっていない!!」
「この人いつもこうだよねえ」
アンラが愉快そうに笑う。
坊ちゃんは目を丸くした。
初見ではない。見たことはある。
でも、いまだにどういう分類をすればいいのか、少しだけ迷う相手ではある。
アンラはおじさん。
ドレッドノートもおじさん。では、この黒いのは何なのか。
「あ、闇のおじさんだ」
ドレッドノートがすぐに反応した。
「おじさん枠、増えたな!!?」
「増えたねえ」
「いや待て、何でそんな当然みたいに受け入れている!?」
アンラは口元を押さえて笑っている。
ウラヌスは「来た来た来た」という顔をしていた。
坊ちゃんだけが、なぜこんなに受けたのかわからない顔をしている。
ディヴァインはというと、スナックを一枚噛み砕いた。
ぱり、と乾いた音。
それから少しだけ坊ちゃんを見て、感情の起伏が一ミリもない声で言った。
「そうか」
終わりだった。
ドレッドノートが絶叫する。
「終わるな!! なぜそこは流すんだ!!」
「いやだって、別に」
ウラヌスが肩をすくめる。
「ディヴァイン様ってそういうの気にしなそうじゃん」
「気にしないにも程があるだろう!! “闇のおじさん”だぞ!?」
「事実ではある」
アンラが真顔で言う。
「創世の闇だし」
「お前まで乗るな!!」
ディヴァインは再びスナックを口に運んだ。
目線はどこか遠い。たぶん会話にすら半分入っていない。
入っていないのに、きっちり話題の中心にはいる。そういう神だった。
坊ちゃんが首を傾げる。
「違った?」
「いや、違うというか……」
ドレッドノートが言葉に詰まる。
「違うと言い切れるほど違わないのがまた嫌なのだが……!」
「闇のおじさん、でよい」
ディヴァインがあっさり言い、今度はウラヌスが吹いた。
「受け入れた~~~~!!」
「早い! 受容が早い!」
アンラが楽しそうに手を叩く。
「見たまえドレ。これが器の差だよ」
「器の差で片付けるな!! 虚無が強いだけだろうが!!」
坊ちゃんは安心したように頷いた。
「よかった。じゃあ、チョコのおじさん、ライオンのおじさん、闇のおじさんだ」
「並べるな!!」
ドレッドノートの悲鳴がまた響く。
ウラヌスは完全に遊び始めていた。
「えー、待って。並びだけ聞くと絵本みたい」
「やめろ」
「“チョコのおじさんとライオンのおじさんと闇のおじさん”」
「やめろと言っている!!」
「深淵児童文学?」
「最悪のラインナップだな」
アンラが笑う。
「でも、わりと嫌いじゃない」
「嫌え!!」
ディヴァインは静かに足を組み替えた。
「成すがままにせよ」
「便利な言葉みたいに使うな!!」
「いや、便利なんだよ実際」
アンラがさらりと返す。
「この人、九割それで済ますし」
「済ませてよいことと悪いことがあるだろう!!」
坊ちゃんは三人を順番に見比べた。
チョコのおじさん。
ライオンのおじさん。
闇のおじさん。
どれも正しい気がした。
それから、子ども特有の残酷な素直さで、さらに一歩踏み込む。
「みんな、おじさんだね」
ドレッドノートがその場で膝をついた。
「まとめるなああああああ!!!!!!」
「ドレ様だけダメージ二倍で草」
「なぜ私ばかりこんなに効くのだ!?」
「一番“年齢”という概念を気にしてるからじゃない?」
ウラヌスが悪気なく言う。
「君は黙っていたほうがいい」
「えへへ」
アンラは少し笑ってから、ディヴァインを見る。
「どうだい闇のおじさん」
「別に」
「ほら見ろ!! この余裕を!!」
「余裕というか、無関心では?」
「ほぼ同義だよ、この人の場合」
アンラの言い方が妙に雑だ。
ディヴァインは坊ちゃんを見る。
子どもは、怖がらなかった。
神格だの終焉だの、創世だの闇だの。
そういうものを一切勘定に入れず。
ただ“黒くて静かなおじさん”として認識した。それだけだった。
それは侮辱ではない。
むしろ、異様にフラットな受容だった。
ディヴァインはスナックの袋を傾け。
中身を一枚取り出して坊ちゃんに差し出した。
「食うか」
「食う!」
「待て!!闇のおじさんも普通にお菓子を渡すな!!」
「君は本当に騒がしいねえ」
アンラが笑う。
坊ちゃんは受け取って、ぱりっとかじった。
普通においしい。
少なくとも、未来がバグる味ではなかった。
「おいしい!」
「そうか」
ディヴァインはそれで満足したらしい。
ドレッドノートは立ち上がりながら、半ば諦めたように呟く。
「……なぜだ。なぜ私だけ、こんなにも“おじさん”が刺さる……」
「普段かっこつけてるからじゃない?」
ウラヌスが即答する。
「うるさい!!」
「図星だ」
アンラまで頷いた。
「君、妙に“神らしく見られたい欲”あるし」
「ない!!」
「あるよ」
「ある」
ウラヌスとアンラの声がぴたりと重なる。
そして、ディヴァインまで。
「あるな」
「闇のおじさんまで言うな!!!!!!!!」
夕方の坂道に、笑い声と絶叫が混ざった。
深淵にもバレンタインは来る。
邪神にもチョコは配られる。
ついでに、近所の子どもにまとめて“おじさん”認定もされる。
なかよしハイツ前は、今日も平和だ。
少なくとも、坊ちゃんの中では。