黙示録祭典 - 5/6

なかよしハイツの廊下は、ついさっきまで邪神の分離体が雷帝に追われ。
悲鳴と放電と罵声が飛び交っていた場所とは思えないほど静かだった。
その静寂を、ぱた、ぱた、と軽いスリッパの音が破った。
現れたのは大家さんだった。

買い物帰りの主婦のように自然な足取りで廊下の角を曲がり。
そこにいる面子を見渡して、ふわりと目を細める。
邪神、勇者、六将、半壊した窓、微妙に歪んだ空間。
普通の人間なら悲鳴を上げるか、少なくとも一歩引くところだ。
だが大家さんは、まるで夕飯前に子どもたちの騒ぎを見つけた母親のような顔をした。

「あらあら、あらあらあら〜。
アンラ様にドレッド様も式典終わりましたのに、また賑やかですねぇ。」
その口調は完全に“近所の世間話”だった。
空気が変わる、というのはこういうことを言うのだろう。
数分前まで邪神の分離体を蹴り飛ばしていたドレッドノートですら。
その声を聞いた瞬間にほんの少し背筋を伸ばした。
礼節の神という本質が、一番変なところで顔を出していた。

「ん? あ、あぁ……奥方……す、少しな……その……」
なにせ説明が難しい。
“邪神の分離体が勇者にまとわりつき、それを自分が蹴り。
さらに雷将がボール扱いして追い回している最中です”など、どこからどう話しても日常会話にはならない。
アンラもまた、珍しく礼儀正しい声音になった。
「やぁ、ダエーワ……用があってね。迷惑ならすぐ帰るよ?」
その姿だけ見れば、気を遣う来客の若社長である。

「いえいえ、迷惑なんてとんでもない。
あ、メルクリウスさん。
お茶出してくださいな。
せっかくだから皆さん、おしゃべりしましょう。」
この人、邪神にも普通に茶を出す。
しかも、提案ではなく決定事項として。
大家さんの“おしゃべりしましょう”には、どこか逆らえない生活の重力がある。
ここは神域でも魔界でもなく、なかよしハイツなのだと、その一言で全員が思い出させられる。

「邪神とお茶する大家さん……恐るべし……」
メルクリウスは、すでにポケットからアールグレイの缶を取り出していた。
反応が速いというより、もはや条件反射だった。
ヴィヌスも感心半分、呆れ半分で肩をすくめる。

外から、バキィ!!!という凄まじい音が響いた。
「ぎゃああああーーー!!」
誰の声か考えるまでもない。
ほぼ確実に少年アンラだ。
また蹴られたか、雷帝に捕まったか、その両方か。

廊下にいた面々の何人かが反射的に窓の方を見たが、大家さんだけはまったく動じなかった。
むしろ湯呑を並べる手元の方に意識を向けたまま、穏やかに言う。
「まぁまぁ、元気ですねぇ皆さん。あとで壁の修理しておきますわ。」
生活感は、神格より強い。

アンラは少しだけ肩をすくめ、困ったように笑った。
「すまないねぇ……助かるよ、ダエーワ。」
ドレッドノートもすぐさま頭を下げる。
「奥方、申し訳ない……本当に。」
礼節の神らしい謝罪だった。
窓を割ったのは自分ではないし、そもそもこの惨状の根本原因はアンラにあるのだが。
大家さんの前ではそんな理屈は意味をなさない。
ここで起きた騒ぎの責任は、とにかく“住人側”が持つ。そういう空気がある。

「大丈夫ですよ〜。このハイツ、多少の次元歪みなら保証ききますから。」
(保証きくの!?!?)
(修理業者どうなってんだこの世界……)
大家さんは湯呑をひとつずつ並べ終え、最後に全員を見渡してにっこり笑った。

「では皆さん、落ち着いてお茶でもどうぞ。
雷の方も、蹴られた方も、そのうち帰ってきますから。」
さっきまでこの場には、常識を踏み潰す連中ばかりがいた。
邪神。勇者。六将。礼節の神。
誰も彼もが、単体で物語を一章終わらせられるような濃度の存在だ。

だが、大家さんの前に座らされると、全員ただの住人に見えた。

ガイウスは半ば呆然としたまま座布団を引かれ、ドレッドノートは妙に行儀よく正座し。
アンラはおとなしく湯呑を受け取る。
ヴィヌスは香りを楽しみ、サタヌスは「なんで俺まで正座なんだよ」とぶつぶつ言いながらも結局従い。
メルクリウスは当然のように給仕側に回っていた。
「ガイウスさんも、どうぞ。」
ガイウスは受け取りながら、まだ少し信じられない顔をしていた。

「……ありがとうございます。」
ガイウスは湯呑を両手に持ったまま、しばらくもじもじしていた。
視線は落ち着きなく泳ぎ、落ち着いたと思えばまた泳ぐ。
頬にはまだ熱が残っている。耳の先もじんわり赤い。
ついさっきまで自分が何をされかけていたのか、そしてどう感じてしまったのかを思い出している顔だった。
やがて、意を決したように大家さんの袖を、ちょん、と引く。

「あの……大家さん……」
その声は、いつものガイウスにしては驚くほど弱かった。
戦場で怒鳴る声とも、勇者らしく啖呵を切る声とも違う。
怒られる前の子どもが、なんとか誤魔化せないかと考えながら出す声だ。
大家さんは湯呑を並べる手を止めて、やわらかく振り向いた。

「はい、なんでしょう? ガイウスちゃん」
その“ちゃん”づけが、今は妙に胸に刺さる。
ガイウスは一瞬だけ目を逸らし、それからまたそろそろと壁の方を見た。
「あの……俺のせいで壁に変なシミできたの……」
言いながら、自分でも情けないと思った。
壁にはまだ、うっすらと“少年アンラだったもの”の残滓がへばりついている。
大家さんはその壁を一度見て、それからガイウスを見た。
そして、あまりにも平然とした声で言った。

「あら、ガイウスちゃん。撫でられただけなのに?」
ガイウスの顔が、一瞬で耳まで真っ赤になった。
「いや、あれは……!」
否定しようとして、だが言葉の勢いが途中でしぼむ。
大家さんの前では、なぜか変な見栄が張れない。
ごまかそうとすると、自分で自分に嘘をついている感じがしてしまう。

「俺がその……ちょっと……悪くないと思っちゃったせいでして……」
最後の方は、ほとんど息みたいな声だった。
超小声だが、その場にいた全員にはしっかり聞こえた。
「はぁ!? お前……マジで言ってんのか!?」
反射で立ち上がりかける勢いだった。
驚愕と呆れと、あと少しの裏切られた感が混ざっている。
ヴィヌスは頬杖をついて、いかにも面白いものを見つけた顔で微笑む。

「やっぱそういうとこが“邪神たらし”なのよねぇ♡」
声が軽い。
まるで以前から薄々わかっていた事実を確認しただけ、という調子である。
メルクリウスは紅茶を一口すすると、実に落ち着いた顔で言った。
「素直でよろしい。」
褒めているのか、観察しているのか、絶妙にわからない言い方だった。
だが彼の目は、わりと本気で「自己認識としては健全だ」と評価している学者のそれだった。

ガイウスはますます小さくなる。
床に穴があったら入りたいどころではない。
いまこの場から異界の底にでも沈みたい。
しかし大家さんの前で逃げるのもなんとなく違う。結局、縮こまりながら座っているしかない。

そんな空気の中で、大家さんはやはりにこにこしていた。
責めるでもなく、呆れるでもなく、ただ“そういうこともありますよねぇ”みたいな顔でメモ帳を開く。
表紙の花柄がえらく平和で、書こうとしている内容とまったく釣り合っていない。
「じゃあ修繕はアーカムで大丈夫よ〜。」
さらさらとペンが走る。

「“邪神の跡シミ・中程度”で処理しておくわね」
大家さんはそれを“いつもの事務処理”みたいな手つきで書いている。特記事項でも注意事項でもなく、完全に既存の分類として。なかよしハイツの管理台帳、たぶん人類が見てはいけない種類のインデックスで埋まっている。
サタヌスが引きつった顔で呟く。
「“中程度”って何を基準にしてんだよ……」
ヴィヌスもさすがに少し目を細めた。
「重度になるとどうなるのか聞きたくないわね♡」

廊下の奥の、誰も気にしていなかった影の濃い場所に、ふっと黒が増えた気がした。
最初からそこにいたようでもあり、いま現れたようでもある、あの不快に自然な出現。
ディヴァインが立っていた。

誰も、その瞬間までは気づいていなかった。
気配というものがあるのかないのかもよくわからない。
静かすぎて、存在が逆に背景と同化してしまうのだ。
黒いマントの内側に闇を抱えたまま、彼はいつの間にかそこにいて、ひと言だけ漏らす。
「……愉快だね……」
その笑みに、影が濃く落ちた。

口元がほんの少し上がっただけ。
それだけなのに、廊下の壁際にある暗がりが一瞬深くなった気がした。
ドレッドノートは即座に反応した。

「その陰キャ笑いやめてください!!!世界壊れる前兆なんですよ!!」
ディヴァインは何も言い返さない。
無表情に近い顔のまま、その眼だけがわずかに面白がっているのが最悪だった
感情が薄いのではない、趣味が悪いのだ。
その事実が、いつもじわじわと怖い。

ガイウスは大家さんの方に顔を向けた。
助けを求める子どもみたいな目になっている。

「大家さん……俺……ここに住んでて大丈夫なのかな……?」
ようやく出てきた本音だった。
邪神に撫でられかけ、変な気持ちよさを認めてしまい、壁には概念のシミがつき。
深淵はその様子を“愉快”と笑う。
そんな環境で“普通に暮らす”という単語が成立していいはずがない。
大家さんは優しく、いつもの笑顔で微笑む。

「大丈夫よ、ガイウスちゃん。ここは“なかよしハイツ”ですもの。」
説明ではない。理屈でもない。
保証内容の詳細でも、深淵耐性の証明でもない。
ただ“ここはなかよしハイツだから大丈夫”という、ものすごく雑で、ものすごく揺るぎない肯定。

けれどその一言で、本当に少しだけ胸のざわつきが引いてしまうのだから困る。
この場所では、世界の法則よりも大家さんの生活感の方が上位なのだ。

湯呑の中の茶もだいぶ冷めて。
割れた窓から入る夕風が廊下の埃とカーテンをゆっくり揺らしていた。
大家さんの出したお茶と座布団が、暴力的なまでに場を“家”へ引き戻してしまった。
その静けさを、ぱたぱたと軽い足音がさらに割った。

「ただいまー!」
元気な声と一緒に、廊下の角から坊ちゃんが飛び出してくる。
サッカーボールを片手に抱え、頬をほんのり赤くして、靴下の片方がちょっとずれている。
どう見ても、さっきまで外で遊んでました、という小学生そのものだ。
「わァ!」
坊ちゃんの目が、廊下の奥に立つディヴァインを見て丸くなる。
「この人がパパがいってる“でぃばいんさま”? すごい、かっこいい!!」
全員が一瞬、固まった。

案の定、坊ちゃんはディヴァインをじっと見たあと、今度はそのすぐ隣にいるガイウスを見た。
赤髪の勇者、黒の神。ぱちぱちと何度か瞬きをし、もう一度見比べる。
顔が似ている、正確にはディヴァインが取っている人型の顔立ちは初代勇者テルース寄りであり。
ガイウスはその系譜に連なる特別個体だから、見ようによっては“親族感”が出てしまう。
事情を知っている側からすれば、笑っていいのか凍っていいのか分からない類の一致だった。
坊ちゃんは、あまりにも無邪気に言った。

「ガイウス、お兄ちゃんいたんだね!」
「こんなコワいお兄ちゃんいないよ!!?」
坊ちゃんはきょとんとしている。
悪意ゼロ、打算ゼロ、ただ“似てるから兄弟かと思った”だけの顔だ。だから余計に強い。

「えー? でも似てるよ?」
「似てない!」
「似てるわよ」
「似てるね」
「似ているな」
「似てるぞ」
「全員そっち立つなよ!!?」
ヴィヌス、メルクリウス、ドレッドノート、サタヌスが面白がって次々に頷いた。
坊ちゃんはボールを抱えたまま、ててっとディヴァインの前まで寄っていく。
普通の子供なら近寄るだけで泣くか、せめて本能的に足が止まるような存在感のはずだった。
だが坊ちゃんには通じない。むしろ“パパがたまに言ってるすごい人”くらいの認識でしかない。

「でぃばいんさま、こんにちは! ガイウスと遊んでくれてるの?」
ディヴァインはしばらく無言で坊ちゃんを見下ろしていた。
その黒い眼差しは、普通ならそれだけで圧になる。
世界の底を覗くみたいな、静かで冷たい、あの深淵の視線。
だが坊ちゃんはまったく怯まない。
「でぃばいんさまも、サッカーする?」
ディヴァインが、ゆっくりと口を開く。

「……サッカー?」
未知の概念。
いや、知識としては知っている。
だが、“誘われた”ことはない。
「うん!たのしいよ!」
理屈も説明もなく、ディヴァインはボールを見る。
それが今、この空間で最も強い“現実”だった。

「……そうか」
「いややらなくていいからな!?」
ドレッドも即座に乗る。
「やめてください世界が球体認識されて蹴られます!!」
アンラが、くつくつ笑う。

「見てみたいな、それ」
やめろ。燃料投下するな。
ディヴァインは、静かにボールを受け取る。
ほんのわずかに口元が、緩む。
「……面白そうだ」

「大家さん!!!止めてください!!!!」
大家さんは、にこにこしている。
湯呑を片付けながら。

「まぁまぁ。危なくなったら止めますから♡」
信用できるようで、できないライン。
坊ちゃんが手を引く。
「いこ!」
ディヴァインが完全に“連れていかれている”。
アンラが、ぽつりと言う。
「……あれ、誰も勝てないね」
「……ああ」
アバドン最強の存在、それは――邪神でもない、天帝でもない。
何も恐れず、何も知らず、すべてに触れる存在。

坊ちゃんである。